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福岡(県) ふくおか

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

福岡(県)
ふくおか

九州地方北東端にある県。南東は大分、南は熊本、西は佐賀の各県に接し、北東は狭い関門(かんもん)海峡を隔てて中国地方の山口県に近接するとともに、北は響灘(ひびきなだ)、玄界(げんかい)灘に臨んで朝鮮半島、東は周防(すおう)灘に臨んで四国と相対し、南西の一部は有明(ありあけ)海に面する。筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)の2国と豊前(ぶぜん)国の北半からなる。九州と本州を結ぶ交通上の要地およびわが国と大陸との接点として、古くから重要な役割を果たしてきたが、中央からは遠く隔たっているという側面もあり、先進性と後進性をあわせもつ。「福岡」の由来は、近世この地に封ぜられた黒田氏が故地の備前(びぜん)福岡(岡山県瀬戸内(せとうち)市長船(おさふね)町福岡)にちなんで命名したことによる。県庁所在地は福岡市。
 明治以降、筑豊(ちくほう)地域を中心とする炭鉱業と、それに基礎を置く八幡(やはた)の鉄鋼業を中心にわが国の四大工業地帯の一つとして発展してきたが、エネルギー革命による石炭産業の衰退によりその地位を著しく低下させた。他方商業は、第二次世界大戦後九州の物資流通の拠点として急速に発展し、県都福岡市はさまざまな行政・経済機能の集積によって九州の広域中心都市として経済・政治・文化活動の要(かなめ)となっている。
 人口は、1920年(大正9)の第1回国勢調査の219万から鉱工業の発展に伴い増加を続け、1940年(昭和15)には300万を超えたが、第二次世界大戦により減少した。戦後、産業の復興によって人口も1960年(昭和35)には400万に達したが、石炭産業の衰退により1965年には1960年に比べ1.1%の減少を示した。その後はふたたび増加に転じ2000年(平成12)は501万5699、2005年は504万9908、2010年は507万1968。地域別にみると福岡・北九州の二大都市周辺の市町村で増加傾向が著しく、ドーナツ化現象が進行している。面積は4977.24平方キロメートルで、人口密度は1平方キロメートル当り1019.0人(2010)である。
 2012年6月現在、28市12郡30町2村からなる。[石黒正紀]

自然


地形
南部の筑後平野を除くと、多数の小山塊に分かれる山地と小規模な平野からなるが、地勢はおおむね南東に高い。南東の大分県境を形成する開析された耶馬渓(やばけい)溶岩台地が、英彦(ひこ)山(1199メートル)、釈迦(しゃか)ヶ岳(1231メートル)など県の最高所を形成、遠賀(おんが)川、矢部(やべ)川が源を発する。その西には熊本県境をなす筑肥(ちくひ)山地と、北側斜面に断層崖(がい)の発達した耳納(みのう)山地が続く。その北に位置する筑紫(つくし)山地は中国山地の延長にあたる比較的低い山地で、本県の中軸を形成、侵食によって準平原化したのちに断層運動により、東から企救(きく)、貫(ぬき)、福智(ふくち)、三郡(さんぐん)と佐賀県境をなす脊振(せふり)などの各山塊に分断され、その間に多数の小盆地や平野を介在させている。地質は多くが古生代から中生代の岩石からなるが、その周辺には石炭層を含む古第三紀層の丘陵が広く分布、県の石炭業を発展させた。平野は筑後平野、福岡平野、直方(のおがた)平野、豊前(中津(なかつ))平野に大別されるが、筑後平野は、筑後川や矢部川の沖積作用と、有明海の干満差による泥土の逆流によって形成された県最大の平野で、佐賀県側の佐賀平野をあわせて筑紫平野ともよぶ。福岡平野は多々良(たたら)川、御笠(みかさ)川、那珂(なか)川、室見(むろみ)川などの中小河川がつくった小規模な沖積平野で、直方平野は遠賀川が形成した盆地状の平野である。豊前平野は、周防灘に面した山国(やまくに)川、今(いま)川などの中小河川が形成した帯状平野である。海岸線は、響灘・玄界灘沿岸では弧状の砂浜海岸と岬が交互する沈降海岸が続き変化に富むが、周防灘沿岸は単調な砂泥・岩石海岸で、有明海沿岸は干拓地と干潟が広がっている。
 県内の自然公園には、県最北部に位置する北九州国定公園のほか、佐賀・長崎県にまたがる海岸地域を主とする玄海国定公園、熊本・大分県にまたがる山岳主体の耶馬日田(ひた)英彦山国定公園がある。また、県立自然公園は太宰府(だざいふ)、筑後川、筑豊、矢部川、脊振雷山(らいざん)の五つがある。[石黒正紀]
気候
日本海沿岸は山陰西部に似た北九州型、筑後平野と内陸盆地はやや内陸型、周防灘沿岸は瀬戸内型と若干地域差はあるが、年間平均気温14~16℃と一般に温暖で、対馬(つしま)海流に洗われる北西沿岸と島では無霜に近い。年降水量は海岸部で1400~1700ミリメートル、山地部で2500~3000ミリメートルと北岸部で少雨傾向を示す。大部分は梅雨期と台風期に集中し、梅雨末期は豪雨にみまわれることがある。冬季は北西季節風が卓越し、曇天の日が多い。[石黒正紀]

歴史


先史・古代
大陸に近いという地理的位置から、日本においてもっとも早くから大陸文化に接し、発展してきた所といえる。春日(かすが)市須玖(すく)、飯塚(いいづか)市立岩(たていわ)、糸島(いとしま)市三雲(みくも)の各遺跡などに代表される多数の弥生(やよい)遺跡の分布は、大陸からの金属器使用、稲作などの文化を全国に先駆けて受け入れ、弥生文化を発達させたものと考えられる。福岡県を中心とする北部九州では古代国家の存続が確認でき、3世紀ごろの『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によれば、奴(な)、伊都(いと)などの小国家の存在が記されている。1784年(天明4)に志賀島(しかのしま)で発見された「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と彫られた金印は、当時の大陸との交流を示す証拠といえよう。また北部九州では多数の銅剣・銅矛(どうほこ)などが出土しており、近畿地方を中心とする銅鐸(どうたく)文化圏と相対する文化圏を形成していたのではないかと推定される。
 664年(天智天皇3)日本の外交、軍事をつかさどるとともに九州を管轄するために大宰府(だざいふ)が置かれたが、その起源は536年(宣化天皇1)那津の口(なのつのほとり)(福岡市南区三宅(みやけ))に官家(みやけ)を設けたことに始まる。平城京の約3分の1の規模をもつ条坊都市が建設されたといわれ、現在太宰府市に残る都府楼(とふろう)跡はその繁栄の一端を示すものである。博多(はかた)は、古くは那津といわれ、大宰府の外港として発展した古い貿易港で、遣隋使(けんずいし)船や遣唐使船も発着した。奈良時代から平安中期にかけて大宰府は九州の政治、経済、文化の中心として栄えたが、律令(りつりょう)制度の衰亡とともに衰退し、博多湾沿岸は1019年(寛仁3)刀伊(とい)の賊の来襲を受けた。[石黒正紀]
中世
大宰府の衰退とは別に、博多は日宋(にっそう)貿易の中心地として新しい大陸文化を輸入して栄え、僧栄西(えいさい)が12世紀末に禅宗をもたらして聖福(しょうふく)寺を建立、脊振山に茶を植樹したといわれている。1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2回にわたる蒙古(もうこ)襲来(元寇(げんこう))によって博多周辺は戦場となり、再度の来襲に備えた防塁(ぼうるい)跡が博多湾沿岸に残っている。その後、北条時宗(ときむね)は元の再来に備えて九州探題を置いたが、鎌倉幕府の衰退に伴い、少弐(しょうに)、島津、菊池氏らによって滅ぼされた。南北朝に入ると九州は南朝方が大宰府を占領し支配したが、室町幕府は今川了俊(りょうしゅん)を九州探題に任命し、1372年(文中1・応安5)南朝軍を制圧した。その後、明(みん)との間に勘合貿易が始まり、大内氏が九州まで勢力を伸ばしてくると、博多はその中心地となり、対明・対朝鮮貿易を推進するために博多商人を庇護(ひご)し、宗金(そうこん)に代表される豪商が活躍して「年(とし)行司」という代表による町人自治が行われるなど、堺(さかい)と並ぶ貿易港として非常に繁栄した。しかし、大内氏の滅亡とともに勘合貿易が中絶したうえに戦国時代の戦乱によって博多は戦火にさらされ、焼け野原と化した。[石黒正紀]
近世
1587年(天正15)九州に入った豊臣(とよとみ)秀吉は、那珂川の東岸に方十町の町割によって博多を復興させるとともに、筑前に小早川隆景(たかかげ)、筑後に立花宗茂(たちばなむねしげ)、毛利秀包(もうりひでかね)、豊前に黒田如水(じょすい)(孝高(よしたか))らの大名を配した。ついで徳川家康は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、大名の配置替えを断行、筑前には黒田長政(ながまさ)(孝高の子)、豊前には細川忠興(ただおき)、筑後には田中吉政(よしまさ)が封ぜられた。その後、田中氏が改易されたために柳河(やながわ)(川)に立花宗茂、久留米(くるめ)に有馬豊氏(ありまとようじ)が入る一方、豊前は分割されて小倉(こくら)に小笠原忠真(おがさわらただざね)が配されるなどして、江戸中期、福岡県域は福岡藩と支藩の秋月(あきづき)藩、久留米(くるめ)藩、柳河藩と支藩の三池(みいけ)藩、小倉藩と支藩の小倉新田(しんでん)藩(千束(ちづか)藩)の7藩体制となった。
 各藩は藩政期を通して殖産興業に努め、柳河藩を筆頭に、干拓などによって新田開発が行われるのと同時に、博多織、小倉織、久留米絣(がすり)などの織物や、高取(たかとり)焼、上野(あがの)焼などの陶器、ハゼ、からしに代表される換金作物などの生産が積極的に推進されて、藩財政を支えた。[石黒正紀]
近・現代
1871年(明治4)7月、廃藩置県によって福岡県域の7藩と中津藩は県となったが、同年11月には福岡県と秋月県が福岡県、久留米・柳川・三池の3県が三潴(みづま)県、豊津・千束・中津の3県が小倉県に改編され、1876年に小倉県の南部が大分県に割譲されたうえで現在の福岡県に統合された。
 本県の明治以降の発展は石炭業の発展に負うところが大である。筑豊の石炭は、18世紀後半に瀬戸内海の塩田で燃料として使用されるようになってから、その採掘量を増加させたが、本格的な開発は1873年日本坑法が発布され、民間資本による自由な炭鉱経営の道が開かれてからで、明治末までに三菱(みつびし)、三井、住友、古河(ふるかわ)などの大手中央資本が進出、筑豊は全国出炭量の過半を占めるほどのに日本最大の炭鉱地域となり、県南の三池炭鉱も1889年(明治22)民間に払い下げられて発展を遂げた。1901年に八幡の官営製鉄所が操業を開始すると、工業化が進行して四大工業地帯の一つとして著しい発展を示したが、製鉄業を核としたために鉄鋼、セメント、化学工業などの比重が高い素材供給基地的性格が強く、それが近年における県産業の地位低下につながっている。農業も、明治10~20年代にかけては日本一といわれるほど農業の先進地域であり、筑後地域を中心に水稲耕作の高い生産性を誇ったが、鉱工業の発達が農業をむしろ停滞させる結果となり、産業全体に占める農業の比重はきわめて小さくなってしまった。
 1889年の市町村制施行によって、福岡と久留米の2市と23町361村が誕生したが、鉱工業の発展により第二次世界大戦までに門司(もじ)、小倉、若松(わかまつ)、八幡、大牟田(おおむた)、戸畑(とばた)、直方、飯塚、田川の各市が相次ぎ誕生した。1953年(昭和28)の町村合併促進法によって県内でも合併が進み、町村数は著しく減少したが、その後1963年に門司、小倉、戸畑、八幡、若松の5市が合併して九州最初の政令指定都市である北九州市が成立、ついで1972年に福岡市が全国で7番目の政令指定都市になるとともに、福岡市南方の4町(小郡(おごおり)、筑紫野(ちくしの)、春日、大野城(おおのじょう))が都市化の進展に伴って市制を施行した。その後も、1981年宗像(むなかた)、1982年太宰府、1992年(平成4)前原(まえばる)、1997年古賀(こが)、2005年福津及びうきはが市制施行、2006年には宮若(みやわか)市、朝倉(あさくら)市、嘉麻(かま)市、2007年にはみやま市が誕生、2010年には前原市が近隣の2町と合併し、糸島(いとしま)市と改称している。[石黒正紀]

産業

石炭産業の衰退により経済力の相対的低下があったとはいえ、鉄鋼業を中心とした重化学工業と九州流通の拠点としての卸売業に特徴をもつ西南日本の商工業の中心であることに変わりはない。[石黒正紀]
農業
南部の筑後平野を中心に経営耕地面積は7万4175ヘクタール(2000)に達し、うち水田が80.8%を占めるが、畑は6.4%にすぎない。農家数は8万4037戸、うち専業農家は1万3808戸(16.4%)で兼業化が著しいが、鉱工業の労働力を早くから農村に求めたことにその原因の一端がある。農業産出額は2263億円(2002)で、九州で4位、全国で17位と大消費地を背景とした生産県としての地位低下は著しい。品目別では野菜が642億円でもっとも高く、以下米の471億円、畜産の381億円、果実の241億円と続く。
 地域別にみると福岡、北九州両市とその周辺では、都市化、工業化に伴う耕地の減少が著しく、米作、園芸、養鶏などを中心とした近郊型零細経営が主体で兼業化も進展している。西部の糸島(いとしま)地域は県下有数の農業地域で、畜産と野菜・花卉(かき)・果実栽培が中心である。おもな果実はミカンで、県南部に次ぐ産地として玄界灘オレンジベルトの一部を形成、イチゴ・スイカ栽培も盛んである。北部の宗像(むなかた)地域は米、野菜、果実を中心とした農業が盛んであるが、県内では比較的畑作の比率が高く、イチゴなどの施設園芸も盛んである。東部の京築(けいちく)地域は零細な米作が中心で農業生産性は低く、北九州市に近接しているにもかかわらず野菜生産もあまり振るわない。中央部の筑豊地域は遠賀(おんが)川流域に開けた農業地域で、石炭業の展開による鉱害などの影響を受けて衰退したが、近年は養鶏、酪農などの畜産を中心に復興しつつある。南部の筑後地域は県下一の農業地域で、その北部では稲作を中心に、キュウリ、ホウレンソウ、ニンジン、タマネギ、キャベツなどの野菜作が盛んで、久留米(くるめ)市田主丸(たぬしまる)を中心とした苗木栽培は、埼玉県川口市安行(あんぎょう)、愛知県稲沢(いなざわ)市、兵庫県宝塚(たからづか)市山本と並ぶ四大産地の一つを形成している。南部の筑後川下流域では、農業経営規模は比較的小さいが、米、イグサ、野菜栽培を中心に生産性が高い。八女(やめ)地区はミカン、ブドウ、ナシ、カキ、キウイフルーツなどの果実や電照ギク、茶の生産地として知られ、とくに茶は高級茶として有名である。[石黒正紀]
林業
林野面積は22万3382ヘクタール(2000)で林野率は高くない。私有化、人工林化がかなり進行しており、大分県日田(ひた)に続く南部の英彦山周辺や奥八女を中心にスギ、ヒノキの植林が盛んであるが、素材生産量は11万4000立方メートル(2001)と少なく、主要産業とはなっていない。[石黒正紀]
水産業
漁獲総量は10万1897トン(2002)とかつては盛んであったトロール漁業の廃止により激減している。生産の中心は沖合、沿岸漁業で、筑前、有明、豊前の3海区に分かれる。筑前海区は対馬(つしま)海流の影響を受けてタイ、アジ、サバ、ブリ、イカなどの好漁場で、底引網、刺網、延縄(はえなわ)や釣りなどの漁業が行われている。有明海区は干潟を利用してのノリ養殖が盛んで、アサリなどの採貝も多い。豊前海区は小型底引網漁業が中心であるが、有明海区と同様ノリ養殖、採貝も盛んになってきている。博多漁港は背後に大消費地福岡、北九州両市をもつだけでなく、京阪神への中継基地として水揚げが急増しており、全国有数の漁港になっている。[石黒正紀]
鉱業
石炭業は明治以降県産業の中心をなし、第二次世界大戦前の最盛期には全国出炭量の3分の2余りを生産していたが、エネルギー革命により1963年(昭和38)の石炭合理化政策決定以降、筑豊中心の大部分の炭鉱が閉山し、唯一稼動していた三池炭鉱も1997年(平成9)3月末に閉山し、石炭業の歴史が閉じられた。県の北東部で産する石灰岩は石炭にかわる主要鉱産物で、生産量は1986万トン(2001)と全国一であり、セメント原料として供給されている。[石黒正紀]
工業
明治末より筑豊の石炭を基盤に鉄鋼を中心とする重化学工業が発達し、四大工業地帯の一つを形成する全国有数の工業県として発展したが、第二次世界大戦後の石炭業の衰退と、素材型工業への偏重という構造的弱点などにより地位低下を起こし、対全国の工業生産額比率も戦前の9%から2.5%まで低下した。2002年の工業統計によると事業所数1万2144、従業者23万6000人、製造品出荷額等7兆0252億円と、出荷額では全国13位であり、品目別では輸送用機器が24.8%でもっとも高く、食料品11.5%、鉄鋼7.5%、飲料・飼料6.9%、金属製品6.2%と続く。地域別に特徴をみると、最大の工業地域はやはり北九州地区で、洞海(どうかい)湾周辺の埋立地に鉄鋼を主体に化学、機械、窯業(セメントなど)といった素材生産を中心とする大工場が並ぶ一方、ビール、水産加工品、製糖などの食料品加工も盛んであるが、周防灘沿岸の苅田(かんだ)町には自動車工業も立地している。筑後地区では大牟田市の石炭・石油化学、非鉄金属工業を中心に、久留米市のゴム、大川市の木工など比較的地元資本による工業が展開している。福岡地区は食料品、電気機器を中心とした機械、印刷・出版などの都市型工業が展開するが、規模は大きくない。筑豊地区は直方市の機械、田川市のセメント工業などに特徴があるが、産炭地域振興事業により多数の工業団地が造成されて宮田町(宮若市)に自動車工業が進出するなど、工業化の促進が図られている。
 伝統工業は各藩の殖産興業によって発達したものが多いが、博多織、博多人形をはじめ、久留米絣、小石原(こいしわら)焼、八女福島仏壇、筑後手漉(てす)き和紙などが有名である。博多織は高級絹織物として帯地を中心にネクタイ、小物などに加工されているが、生産量は減少傾向にある。久留米絣は実用的な綿織物として久留米市周辺で小規模ながら着物地を中心に生産されてきたが、衰退傾向にある。小石原焼は古くは半農半陶という形で小規模に民衆の日用品を製作していたが、昭和30年代以降民陶ブームにより発展を遂げ、現在では窯元も50余りとなった。博多人形は、日本を代表する人形の一つといわれ、福岡の代表的な土産(みやげ)品となっている。八女福島仏壇は、筑後の伝統工芸技術の高さを示すものとして知られ、荘厳華麗な大型品を主体としていたが、近年では部品製造の比重が高まってきている。そのほかの工芸品としては高取焼、上野(あがの)焼、掛川(かけがわ)(イグサ茣蓙(ござ))、籃胎(らんたい)漆器、八女石灯籠(いしどうろう)、八女提灯(ちょうちん)などがある。[石黒正紀]
商業
九州の商品流通拠点として発展しているため商業活動は活発で、商業年間販売額は22兆0350億円(2002)と全国第4位である。とくに卸売部門は16兆8120億円と大きな比重を占め、なかでも福岡市は広域中心都市として各企業の本支社、官公庁、銀行などが集中し、商業活動の要となっている。また対事業所サービス業などのサービス業の展開も目覚ましい。[石黒正紀]
開発
1963年(昭和38)の北九州総合開発計画特定地域指定をはじめ多数の計画に基づき工業を中心とした地域開発が進められてきたが、近年では大都市開発に中心が移りつつある。1962年には大牟田など県南地域が新産業都市に指定される一方、産炭地域振興事業団により筑豊に大型工業団地が多数造成されたが、いずれも低迷している。北九州では新たな産業振興のために周防灘沿岸で1962年より508ヘクタール、響灘沿岸で1973年より1387ヘクタールの工業用地造成が進行中で、苅田の日産自動車に代表される新規の企業立地も行われつつある。遠賀川、筑後川では、北九州ならびに福岡両大都市などへの安定した用水供給や治水のために、河口堰(せき)が1980年と1983年にそれぞれ完成した。最近では、1998年(平成10)県の人口が500万人を突破、九州における経済や行政の中枢機構が福岡県に集中する傾向がみられる。そのため県では、国際交流、とりわけアジア諸国との共存と地域活性化、環境にやさしい循環型社会を目ざした「ふくおか新世紀計画」を策定している。[石黒正紀]
交通
本州との接点にあたるため九州の陸上交通幹線が集中し、鉄道・国道両海底トンネル、関門橋で本州と連絡している。九州の最重要幹線であるJR鹿児島本線と日豊(にっぽう)本線が、それと並走する国道3号、10号と県の東西を縦走して南に伸び、県南部を両本線を結ぶ久大(きゅうだい)本線が国道210号と並走して横断している。筑豊では筑豊本線をはじめ多数の支線が石炭輸送を中心に発達したが、石炭業の衰退により、支線の多くは廃線ないし第三セクター化されている。また、福岡市を中心に西日本鉄道が近郊の都市を結んでいる。1975年(昭和50)山陽新幹線が博多まで開業し、さらに九州縦貫自動車道、九州横断自動車道(長崎自動車道、大分自動車道)の県内区間完成、福岡市の地下鉄、北九州市のモノレール、さらに両市の都市高速道路の開通とあわせ、福岡県も高速交通時代に入った。航空の便は、全国有数の設備を誇る福岡(板付(いたづけ))空港から全国の主要都市へ多数の航空路が開かれるとともに国際線もアジアを中心に多数発着、九州の玄関となっている。さらに2006年(平成18)3月、北九州市および隣接する京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町の沖合いの人工島に新北九州空港(2008年に北九州空港と改称)が開港した。この海上空港は2.1キロメートルの新空港連絡橋で九州本土と結ばれており、エアポートバスが通じる。新空港開港に伴い旧北九州空港は閉港した。海運も北九州港、博多港、三池港、苅田港の四貿易港を中心に、長距離フェリー、離島航路なども発達している。2011年には、JR九州新幹線鹿児島ルートが全線開通し、博多―鹿児島中央が直接結ばれた。[石黒正紀]

社会・文化


教育・文化
江戸時代の藩校は、福岡藩では1784年(天明4)に東学問所(修猷館(しゅうゆうかん))と西学問所(甘棠館(かんとうかん))が併設されたが、のちに修猷館に併合、小倉藩では1788年に思永館(しえいかん)、久留米藩では1796年(寛政8)に明善堂(めいせんどう)、柳河藩では1824年(文政7)に伝習館(でんしゅうかん)が開設された。明治以降はそれぞれ県立中学校(現高校)として県下の教育を支えてきた。庶民教育を行った私塾と寺子屋も同時期多数開設されたが、亀井南冥(なんめい)の亀井塾(1792)と村上仏山(ぶつざん)(1810―1879)の水哉園(すいさいえん)(1835)が有名であった。
 現在は九州の教育・文化の中心として高等教育施設である大学の集中が著しい。1910年(明治43)に全国4番目の帝国大学として発足した国立九州大学をはじめ、2008年(平成20)現在、大学34校(うち国立3、公立4)、短大21校(すべて私立)、高等専門学校3校を数え、とくに福岡市への集中が目覚ましい。文化施設も公立図書館44、博物館および同種施設は80以上と多くを数えるが、おもなものに、福岡市の県立美術館、市立美術館・歴史博物館、北九州市の市立美術館、自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)、久留米市の有馬記念館・石橋文化センター、直方市の石炭記念館、田川市の石炭・歴史資料館、小郡(おごおり)市の九州歴史資料館、朝倉(あさくら)市の秋月郷土館などがある。また、2005年10月には太宰府市に九州国立博物館が開館した。
 情報、報道についても九州の中心として朝日、毎日、読売の全国紙が印刷・発行をする西部本社を北九州市に、日経が西部支社を福岡市にもつほか、福岡市に発行本社がある『西日本新聞』がある。テレビ局はNHKのほかに、九州朝日、RKB毎日、テレビ西日本、福岡放送、TVQの民間5局体制にあり、ラジオもNHKに加え、九州朝日、RKB毎日、FM福岡、CROSS FM、九州国際FM(Love FM)の6局があり、CROSS FMを除けば福岡市に本社を置いて県域を越えて広く情報を伝達している。[石黒正紀]
生活文化
県内は地域的には豊前、筑前、筑後の3国から成り立っているが、県民性、方言などにも地域性が反映されている。県北部は古くから日本の要衝として発展してきたこともあり、その県民性は男性的で行動的であるが、粘着性に欠けるといわれる。博多っ子にみられる祭り好きや都市的開放性・洒脱(しゃだつ)性や、遠賀川流域の川筋気質はその典型であるが、川筋気質は筑豊炭田開発に伴う新しい気風ともいえる。南部は豊かな自然に恵まれ生活の基盤が比較的安定しているため、土着性と粘着性があり、筑後のさまざまな伝統工芸はそのような風土のなかから生まれたものとされる。
 ことばは東九州(豊日(ぶにち))方言と西九州(肥筑(ひちく))方言に二分される。豊日方言は音韻、文法など中国方言と通じる点があるが、下二段型や上二段型の文語動詞活用形を残していることに九州方言の特質を有し、イ語尾と逆接の確定の助詞ケンド、ケンドガにより肥筑方言と区分される。肥筑方言はヨカ(よい)、タカカ(高い)などのカ語尾形容詞やバッテン、バイなどの助詞の使用によりもっとも九州的色彩が濃いといわれ、逆接の確定の助詞はバッテン、バッテンカ、バッテとなる。筑豊地域は両方言の混在地域であるといわれる。
 衣は、農山村では普段着と仕事着の兼用が他県と同様に一般的で、材質は木綿ないし麻で、単衣を主体とし、冬はぬのこ(綿入れ)も使用され、久留米絣(がすり)は普段着として発展した。漁村では仕事着としてヤンザないしはドンザとよばれる刺子(さしこ)が使用され、炭鉱では、キャップランプに作業服、脚絆(きゃはん)、地下足袋(じかたび)の坑夫姿が定着したのは比較的近年であった。ただ広東(カントン)織を導入して博多織を生んだように、進取の気質をもつ土地がらは、現在でも、東京で流行した最新ファッションをただちに取り入れることに表れているといえよう。
 食事は一般に質素で、麦飯を主体に粟(あわ)、米を混ぜたものが主食で、副食も野菜、イモ、豆、海藻などが中心であった。八女(やめ)地方では茶摘みの時期には団子汁が、豊前地方では若者が集まるおりにかしわ(鶏(とり)肉)や魚を入れた塩気(しょうけ)飯が、博多ではハレ(慶弔ごと)の日にがめ煮がつくられたりした。がめ煮は現在も博多を代表する郷土料理として、おきゅうと(おきうと)、からしめんたい、鶏の水炊きなどと並んで有名である。
 県内の一般的な民家の間取りは四間(ま)造や三間造の矩形(くけい)で寄棟(よせむね)造の直屋(すごや)であるが、福岡市周辺では直屋から発達したL字型の鍵屋(かぎや)が多く分布し、突出部はほとんど座敷となっていた。県南部は屋根型の豊富な地域で、変形した鍵屋だけでなく、コの字型のくど造やロの字型のじょうご造もみられ、これらはともに屋根を低くし暴風に備えたものといわれる。棟飾りは、南部では美しいものも若干みられるが全般的にじみで、破風(はふ)もあまりみられない。[石黒正紀]
民俗芸能
種類が多く豊富であるが、日本芸能の源流を示す芸能や、中世の芸能を伝承させていることに特色をもつ。神楽(かぐら)は、出雲(いずも)系の面(めん)神楽(岩戸神楽)が県中部を中心にもっとも多くみられ、岩戸神楽(那珂川(なかがわ)町)、太祖(たいそ)神楽(篠栗(ささぐり)町)、宇美(うみ)神楽(宇美町)などが有名である。北部では豊前岩戸神楽という伊勢(いせ)系神楽に特徴的にみられる湯立(ゆだて)を行うものが多く分布している。これは豊前修験道(しゅげんどう)の影響を受けたもので、赤幡(あかはた)神楽(築上(ちくじょう)町)、横代(よこしろ)神楽(北九州市)などが有名である。神楽は明治以降は各氏子が行ってきているが、筑前御殿(ごてん)神楽(北九州市)だけは今日も神職によって行われ、神職神楽の芸態が残されている。
 獅子舞(ししまい)は、伎楽(ぎがく)系のものと魔祓(まはら)いをするものとがあるが、大分(だいぶ)の獅子舞(飯塚(いいづか)市)、土師(はじ)の獅子舞(桂川(けいせん)町)、綱分(つなわき)の獅子舞(飯塚市)などは伎楽系に属する。蜷城(になしろ)の獅子舞(朝倉(あさくら)市)は魔祓いのもので、香椎宮(かしいぐう)奉納獅子楽(がく)はどちらかというとその影響を受けた太(だい)神楽系である。
 太鼓踊りは、念仏踊りや田楽(でんがく)の風流(ふりゅう)化した芸能であるが、筑後では風流とか浮立(ふりゅう)とよび、豊前では楽打(がくうち)と称する。星野(ほしの)村風流(八女市星野地区)、八女津媛(やめつひめ)神社の浮立(八女市矢部地区)、田代の風流(八女市黒木地区)、今古賀(いまこが)風流(柳川(やながわ)市三橋(みつはし)町地区)などが有名で、稚児(ちご)風流(筑後市)は子供だけで行う珍しいものであるが、いずれも大太鼓を使用する。豊前楽打の源流は山田の感応楽(かんのうがく)(豊前市)といわれ、道原(どうばる)楽、石田楽、沼(ぬま)楽、葛原(くずはら)新町楽はいずれも北九州市小倉南区に伝存する楽打であるが、下検地(しもけんじ)楽(行橋(ゆくはし)市)はニワトリ楽の異名をもつ独特なものである。
 盆踊りは各地にみられるが、遠賀川流域のものが代表的で、はねそ(芦屋(あしや)町)、植木三申(うえきみさる)踊(直方市)、中間(なかま)の盆踊り(中間市)の3種に大別され、宿場踊りともよばれる木屋瀬(こやのせ)盆踊(北九州市)や日若(ひわか)踊(直方市)は三申踊と同系統である。
 そのほか全国的に有名なものとして、室町時代~江戸初期に盛行した幸若(こうわか)舞のおもかげを伝える大江の幸若舞(みやま市、国指定重要無形民俗文化財)や指物(さしもの)細工の技巧を生かしたからくり人形として知られる八女福島の灯籠(とうろう)人形(同上)がある。祭事芸能は大型のものが県北部を中心に多数存在するが、その代表的なものは博多祇園山笠(ぎおんやまがさ)、戸畑祇園大山笠(提灯山笠、ともに国指定重要無形民俗文化財)、小倉祇園太鼓で、県下の三大祇園祭として知られる。それ以外にも祭りは多く、筥崎宮(はこざきぐう)の玉せせりや放生会(ほうじょうや)(福岡市)を筆頭に、和布刈(めかり)神社の和布刈神事(北九州市)、太宰府天満宮の鬼すべや鷽替(うそか)え(太宰府市)、大善寺(だいぜんじ)の玉垂(たまたれ)宮の鬼夜(おによ)(久留米市、国指定重要無形民俗文化財)、求菩提(くぼて)山のお田植祭(豊前市)、博多どんたく(福岡市)、風治八幡(ふうちはちまん)の川渡(かわわたり)神幸祭(田川市)、水田(みずた)天満宮の千灯明(筑後市)や動乱蜂(どうらんばち)(久留米市)の仕掛け花火、宗像(むなかた)大社の海上神幸祭(宗像市)、どろつくどん(柳川市)などが知られている。築上(ちくじょう)郡吉富(よしとみ)町の八幡古表(はちまんこひょう)神社の傀儡子(くぐつ)の舞と相撲(すもう)も国の重要無形民俗文化財に指定されている。[石黒正紀]
文化財
日本の古代文化の中心をなしたと考えられる福岡県は埋蔵文化財の宝庫で、国の指定史跡もきわめて多い。その中心は大野城跡(大野城市、太宰府市、宇美町)、基肄(きい)城跡(筑紫野市)、大宰府跡(太宰府市)、水城(みずき)跡(太宰府市、大野城市、春日市)、王塚(おうづか)古墳(桂川町)の5特別史跡で、ほかに板付(いたづけ)遺跡(福岡市)、志登(しと)支石墓群・怡土(いと)城跡(糸島(いとしま)市)、八女古墳群(八女市)、屋形古墳群(うきは市)や、竹原(宮若市)、石神山(せきじんさん)(みやま市)などの古墳、高良山(こうらさん)(久留米市)や女山(ぞやま)(みやま市)などの神籠石(こうごいし)、筑前(太宰府市)や豊前(みやこ町)の国分寺跡、元寇(げんこう)防塁・福岡城跡(福岡市)などの国指定史跡がある。国宝は観世音(かんぜおん)寺(太宰府市)と西光(さいこう)寺(福岡市)の梵鐘(ぼんしょう)、太宰府天満宮の翰苑(かんえん)、誓願(せいがん)寺(福岡市)の盂蘭盆縁起(うらぼんえんぎ)、志賀島出土の金印、宗像大社沖津宮(宗像市)の祭祀(さいし)遺跡出土品、宮地嶽(みやじだけ)古墳(福津市)の出土品、求菩提山(くぼてさん)(豊前市)の銅板法華経(ほけきょう)と銅筥(どうばこ)がある。このほかにも、建造物や仏像などの重要文化財を多数有する筥崎宮(福岡市)、英彦山(ひこさん)神宮(添田(そえだ)町)、風浪(ふろう)神社(大川市)、浮嶽(うきだけ)神社(糸島市)、宇美八幡宮(宇美町)や聖福(しょうふく)寺・承天(じょうてん)寺(福岡市)、普門院(ふもんいん)(朝倉市)、善導(ぜんどう)寺(久留米市)、鎮国(ちんこく)寺(宗像市)などの社寺も多い。[石黒正紀]
伝説
筑紫郡太宰府天満宮の社前にある「飛梅(とびうめ)」は、菅原道真(すがわらのみちざね)ゆかりの名木として名高い。配流(はいる)になった道真が京の自邸の庭前の梅に「東風(こち)吹かば匂(にほ)ひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ」と別離の悲しみを詠みかけたところ、歌に感応した梅が太宰府に飛来したという伝説を生んだ。飛梅伝説は貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)の一つであるが、道真の場合は御霊(ごりょう)信仰を伴っていることは注目する必要がある。これは『大鏡(おおかがみ)』『北野天神縁起(きたのてんじんえんぎ)』など多くの文献にみえるところである。なお飛梅は太宰府のみにとどまらず、さらに朝倉郡筑前(ちくぜん)町の老松(おいまつ)宮の社前、築上(ちくじょう)郡築上町の綱敷(つなしき)天満宮の社前にも太宰府の梅が飛んでいって根づいたと伝えている。曽我(そが)兄弟の死後、「大磯の虎(おおいそのとら)」(十郎の愛人)とよぶ女性が髪を下ろして巡歴し、兄弟の死を弔うために供養塔を建てたと伝える地は諸国にあるが、本県にもその足跡をしるして福岡市八幡社内、みやま市叡興(えいこう)寺内、うきは市百堂塚、筑前町熊野社内、飯塚(いいづか)市冷水(ひやみず)峠などきわめて多い。「大磯の虎」とは諸国を巡歴した巫女(みこ)の名で、供養塔はその足跡を示すものと推測される。中国人の漂着伝説の一つに「徐福(じょふく)」がある。秦(しん)の始皇帝のころの人で、帝の命により東海に神薬(しんやく)を求めるために渡来したという。和歌山県の熊野や佐賀県の金立山(きんりゅうさん)にも徐福ゆかりの伝説を残すが、八女(やめ)市山内の童男山(とうなんざん)の古墳は、難船し漂着した徐福を救い蘇生(そせい)させた地と伝えており、いまも毎年1月20日に童男ふすべという行事を続けている。説経節で流行した語物(かたりもの)の「百合若(ゆりわか)」は、英雄が遠征の帰途家臣の裏切りによって孤島に置き去りにされ、のち故国にたどり着き叛臣(はんしん)を滅ぼすという、中世的色彩の濃い英雄伝説で、本地は北九州、宇佐をめぐる海人部(あまべ)の伝承と考えられる。本県では博多湾上の玄界島が置き去りにされたといわれている島で、そこに百合若の鷹を祀(まつ)る小鷹(こだか)明神という社がある。福岡市筥崎宮の境内に「唐船塔(とうせんとう)」という三重の石塔がある。博多はもと中国との交易港であった。唐人祖慶(そけい)が故(ゆえ)あって捕らえられてこの地にとどまるうち、日本人妻との間に2子が生まれた。祖国にも残した2子があり、父を迎えにきたが、帰国が許されても日本生まれの子を伴うことができずに憂悶(ゆうもん)の日を送るのを憐(あわ)れみ、役人の司(つかさ)がとくに同伴を許したという。四番目物の能『唐船(とうせん)』は、この伝説に取材したもの。博多区大学通りの石堂川の右岸に濡衣(ぬれぎぬ)塚とよばれる供養塔がある。継母(ままはは)に濡衣を着せられて殺された娘が、父親の夢枕(ゆめまくら)に立って無実を訴えたという伝説で、『雑話(ざつわ)集』や『筑前国続風土記(しょくふどき)』に詳しく記されている。無実の罪のことを「濡衣を着る」というようになったのは、この伝説の故事によると伝えている。
 この地方にも八並(やつなみ)長者をはじめ土生(はぶ)長者、三池長者など名高い長者の伝説が語り継がれている。いずれも埋金伝説を伴い、心が貧しかったために福運が尽き、ついに没落して終わっている。河童(かっぱ)は広く全国に分布する伝説であるが、その重心は九州にあって伝承の深さを示している。『倭訓栞(わくんのしおり)』によれば、中国渡来の河童九千坊(くぜんぼう)は球磨(くま)川を根城にし勢威を増大して乱暴を働いたため、加藤清正(きよまさ)の怒りを買って肥前から筑後久留米へ追われ、有馬領の筑後川の水天宮の眷属(けんぞく)になったという。水天宮の祭神は筑後川の治水の神である。筑後川の尼御前(あまごぜ)の神職、渋江氏の先祖は、客あるごとに河童を使役してコイなどをとらせたと『水虎(すいこ)説』に記している。河童は本県ではカワント、カワノヒト、ガラッパ、カウラワラウ、ガワタロウなどとよび、水の神として崇(あが)められている反面、「河童駒(こま)引き」のような性悪でいたずら好きな妖怪(ようかい)の小童(しょうどう)とされている。[武田静澄]
『西日本文化協会編『福岡県史』全66巻(1982~2003・福岡県) ▽「日本の食生活全集福岡」編集委員会編『聞き書福岡の食事』(1987・農山漁村文化協会) ▽『角川日本地名大辞典 福岡県』(1988・角川書店) ▽岡野信子著『福岡県ことば風土記』(1988・葦書房) ▽友野晃一郎著『福岡のわらべ歌』(1988・柳原書店) ▽川添昭二他著『福岡県の歴史』(1990・光文館) ▽『福岡県万能地図――新版』(1991・西日本新聞社) ▽福岡県教育委員会編『福岡県の近代化遺産』(1993・西日本文化協会) ▽福岡県博物館協議会編『改訂版福岡県の博物館』(1994・海鳥社) ▽『平成福岡県の新名所』(1994・西日本新聞社) ▽平山輝男他編『福岡県のことば』(1997・明治書院)』

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