空(くう)(読み)くう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「空(くう)」の意味・わかりやすい解説

空(くう)
くう

サンスクリット語のシューンヤśūnya(śūnyatā)の訳語。原語はもともと数の0(ゼロ)を表す。たとえば、1から1を引いて0というのは無を示し、また10というのは、1位の数の無を表すが、同時に1が10位にあること(有)を示す。後者の意味でのゼロは、したがって単なる無ではなくて、実は10位を支えている。さらに、本来このような位取りそのものが、ゼロという数の発見によって初めて可能なのであり、その発見はインド人(人名不詳)による。同時に空の思想もまたインド人の独創であるが、いわゆるインド正統派哲学では無ないし非存在についての詳しい考察はあっても、空はほとんど顧みられず、それを推進したのはもっぱら仏教であった。

 空は「から」という訓に示されるように、そこに占めるものの欠如をいうが、「から」であることがかえって有用性を発揮する。たとえば、コップは内部がからのために水を入れうる。いわば欠如は消極的にも積極的にもある意義をもっている。仏教で最初に空を説いた際には、この欠如をさして、たとえば、「講堂に象馬などは空」といい、かつ「そこに比丘(びく)はいる」という。すなわちAは欠如し、逆にBは残る。ここに「残るもの」への指向を空は示唆する。こうして、いわゆる「空の観法(かんぼう)」が成立し一種修行の途(みち)となる。それは、むしろ積極的に、ある目標だけを「残るもの」として集中専念し、その他のいっさいを欠如として否定する。この目標を徐々に向上させていくことにより、悟りに近づこうとする。これとは別に、原始仏教には無我が強調され、煩悩(ぼんのう)や我執(がしゅう)などからの離脱をとくに掲げた。

 やがて部派仏教に移り、法(ダルマ)に関する教理の固定化とともに、そのうちの保守派(とくに説一切有部(せついっさいうぶ)、略して有部)は、種々に区分されたあまたの法(有部は75法)をそれ自体で存在する実体としてたて、ここに「法の有(う)」が主張される。この考えは、実はわれわれの日常的な考えを結晶させたものといってもよく、かつそれによって実践の目標や過程も明示されるところがある。それを覆(くつがえ)すのが空であって、存在するいっさいのものから、その自体を奪い、さらに実体を厳しく否定して、すべてを「から」にするよう、空は強力に働く。そこには無我説の復活もあり、こうして空によって、法を含むあらゆる存在から自体や実体は消され、我執などのとらわれもすべてなくなる。有名な「色即是空(しきそくぜくう)」の句は、色や形をもつ客観的対象が「独立の実体」としては存在せず、すなわち空であると説き、さらにそれは「空即是色(くうそくぜしき)」と続いて、実体を否定してとらわれない空によってこそ、諸対象がそれぞれの局面にその対象として存在しうることを示す。その客観的対象から、主体すなわち「受想行識(じゅそうぎょうしき)」についても、同文の空が反復されて、同一の主張がなされる。これは思想史的には、有部への批判として、大乗仏教の先駆を果たした『般若経(はんにゃきょう)』のなかに、一種の否定的色彩の濃い空が繰り返し説かれた。空の論理的基礎づけはその後に初期大乗仏教を確立し定着させたナーガールジュナNāgārjuna(龍樹(りゅうじゅ)、150ころ―250ころ)によって完成される。彼は、すでに原始仏教以来説かれていた縁起説をいっそう深く徹底させ、いっさいの存在が互いに相依・相関しあっており、その際それぞれがおのおのに否定と肯定とを含み、矛盾しつつ相即していることを明らかにした。こうして実体はまったく無となって空が輝く(これを縁起―無自性(しょう)―空という)と同時に、その空にとらわれることも空として否定される(空亦復(やくぶ)空)。こうして真の自由は達せられるが、これをわかりやすくいえば、煩悩・執着(しゅうじゃく)・凡夫にせよ、解脱(げだつ)・ニルバーナ(涅槃(ねはん))・如来(にょらい)にせよ、それらを実体として固定させず、凡夫もその煩悩を粉砕して、聖なるものに近づく途が開拓された。なお、上述の「空―残るもの」の説は、後の中期大乗仏教において、その唯識(ゆいしき)説でふたたび論議された例もある。

[三枝充悳]

『仏教思想研究会編『空』全2巻(1981、82・平楽寺書店)』『三枝充悳著『中論 縁起・空・中の思想』全3巻(第三文明社・レグルス文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android