大分(県)(読み)おおいた

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大分(県)
おおいた

九州の北東部にある県。東は速吸(はやすい)瀬戸(豊予(ほうよ)海峡)、豊後(ぶんご)水道を挟んで四国の愛媛県に、北は周防灘(すおうなだ)を挟んで中国地方の山口県に対し、北西は福岡県、西は熊本県、南は宮崎県に接している。大和(やまと)朝廷のころは豊国(とよのくに)に属していたが、のち豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)の2国となった。県名は、古代に国府が置かれて以来、豊後国の中心をなしてきた大分郡にちなむ。『豊後国風土記(ふどき)』によると、景行(けいこう)天皇が豊前国の京都(みやこ)の行宮(かりみや)から大分の地に巡幸したとき「広く大きなるかも、此(こ)の郡は。碩田(おおきた)の国と名づくべし」といい、碩田から大分に転訛(てんか)したとの地名説話を伝えている。
 大分県は、日本の中央よりは大陸に近いという九州島内では特異な地域である。すなわち、大陸には背を向けて瀬戸内海に臨んでおり、大陸との関係は少なく、瀬戸内地方との関係が深い。気候温暖ながら、西偏する位置とともに山がちな地形は諸人文活動に不利である。南部の九州山地と中・北部の火山活動の激しかった地域に分かれ、森林、鉱物、水産、観光などの各資源には比較的恵まれている。なかでも総面積の70%を占める林野からは、スギ材の産が多く、全国第5位の林業県である。別府(べっぷ)湾に臨む大分平野は、大野川と大分川・筑後(ちくご)川上流の両河谷とによって筑肥(ちくひ)(福岡・熊本県)に続く要地で、古くから東九州の中枢をなし、1960年代には大分地区新産業都市に指定され、農工併進を県是とする県勢発展の開発拠点となってきた。瀬戸内海に臨み、北九州にも近い中津平野、筑紫(つくし)平野に隣接する日田盆地も早くから開けた。そのほか河谷、盆地、リアス式海岸奥の低地が散在しているが、いずれも山地によって互いに遮られている。このような地形的分裂性は、各地に特色ある多くの小文化圏の発生を促している。
 人口は、1920年(大正9)の第1回国勢調査では86万0282、2000年(平成12)には122万1140と、80年間に36万0858の増加を示している。その間の人口動態をみると、1935~1940年(昭和10~15)の7483減を除き、増加は続いたが、1955年の127万7199をピークとして、以後は全国的な人口の大都市集中を反映して人口流出県となり、1970年は115万5566、1971年以降はまた増加に向かい、1985年には125万0214に達した。1986年以降は、ふたたび緩やかな減少傾向にあるが、その要因は、自然増加数の減少と、若年層を中心とする社会減である。面積6339.71平方キロメートル、2010年の国勢調査人口は119万6529人。
 2012年10月時点で、14市3郡3町1村からなる。県庁所在地は大分市。[兼子俊一・宮町良広]

自然


地形
南部は九州山地の一部で、中部から北部にかけて広い火山地域があり、平地に乏しい。北東部の周防灘に突出する国東(くにさき)半島は古い火山からできていて、開析が進み、最高点両子(ふたご)山も721メートルにすぎず、放射谷の発達が顕著である。北部はほとんどが400~500メートルの溶岩台地であるが、断層や河川(山国(やまくに)川、駅館(やっかん)川、筑後川上流)の侵食によって、日田、玖珠(くす)、安心院(あじむ)などの盆地や、耶馬渓(やばけい)、院内(いんない)などの谷がつくられている。この北東部に広がる中津平野は、山国川、駅館川などがつくった扇状地と、これに続く浅い海底堆積(たいせき)面が隆起してできた隆起扇状地と海岸平野、およびこの前面の三角州と干潟干拓地とからなる。中部の別府周辺から九重(くじゅう)にかけては、別府火山群に属する高崎山、鶴見岳、由布(ゆふ)岳や、九州の屋根をなす九重火山群の中岳(1791メートル)、大船(たいせん)山(1786メートル)、久住(くじゅう)山(1787メートル)など20余の火山(おもに鐘状(しょうじょう)火山)が連なり、温泉も豊富である。南部は九州山地の一部で、古生層、中生層などが北から南へ整然と帯状に配列し、石灰岩脈を含み、早・壮年期地形を呈する。東端部は豊後水道に終わって、リアス式海岸をなしている。この山地と、瀬戸内海陥没地帯における断層地塊とみられる佐賀関(さがのせき)半島、御座(ござ)ヶ岳(797メートル)両山塊との間は地溝帯で、阿蘇(あそ)溶岩に満たされて、大野川が流れている。また西部には火成岩からできた山地が多く、宮崎県境には祖母(そぼ)山(1756メートル)、傾(かたむき)山(1605メートル)などの高山がそびえている。大分平野は大野川、大分川などのつくった三角州平野で、低い丘陵に囲まれている。
 県内の自然公園には、サルの高崎山、ウミネコの高島、国東半島の両子山・文珠(もんじゅ)山や、姫(ひめ)島を含む瀬戸内海国立公園、九重火山群と広大な飯田(はんだ)、久住の両高原から奥別府までを包含する火山と高原の公園、阿蘇くじゅう国立公園のほか、奇岩秀峰、渓谷美で知られる耶馬日田英彦山(やばひたひこさん)国定公園、峻険(しゅんけん)な山岳景観をもつ祖母傾(そぼかたむき)国定公園、複雑な海岸美の海の公園、日豊(にっぽう)海岸国定公園がある。また、県立自然公園には、国東半島、豊後水道、神角寺芹川(じんかくじせりかわ)、津江(つえ)山系、祖母傾の五つがある。広大な火山地域、深山と渓谷、リアス式の海岸など、その自然は変化に富み、日本一の源泉数と湧出(ゆうしゅつ)量を誇る温泉群や、文化財とともに多くの観光資源に恵まれている。[兼子俊一・宮町良広]
気候
中津平野、国東(くにさき)半島、別府湾沿岸地方は瀬戸内式気候区に属し、年降水量1400~1500ミリメートルと少なく、夏季夕凪(ゆうなぎ)の現象がある。豊後水道沿岸地方は高温多雨の南海型気候区に含まれ、年平均気温16℃前後、1月も6℃くらい、年降水量は1700~1800ミリメートル、亜熱帯性のアコウ、ビロウもみられる。山国、駅館、筑後、大分、大野諸河川上・中流の山間盆地地方は、海岸地方に比べて年降水量は200~300ミリメートルぐらい多く、気温は2℃内外低下する。英彦山、津江山地、九重火山群、九州山地など、西部山岳地方にいくと、年平均気温12~14℃、年降水量は2000ミリメートルを超え、冷涼多雨の山岳性気候となる。[兼子俊一・宮町良広]

歴史


先史・古代
大分市丹生(にう)遺跡、日出(ひじ)町早水台(そうずだい)遺跡の前期旧石器文化は多くの問題を残しているが、近年、大野川流域の岩戸遺跡(豊後大野(ぶんごおおの)市)をはじめ、県内に広く後期旧石器遺跡が発見され、人類居住の古いことが知られるようになった。縄文時代の遺跡には、早水台遺跡や川原田(かわはらだ)洞穴(杵築(きつき)市)、大石遺跡(豊後大野市)などが知られ、弥生(やよい)時代の遺跡には台ノ原遺跡(宇佐市)、吹上(ふきあげ)遺跡(日田市)のほか、東の登呂(とろ)に対する西の安国寺といわれる安国寺遺跡(国東市)があり、多くの遺物や住居跡が発見されている。さらに古墳(赤塚・御陵・下山古墳など)も県下に広く密に分布しているが、弥生文化には北九州や近畿の影響がみられ、古墳も前方後円墳が多く、筑後、肥後(ひご)方面に多い装飾古墳や石人の存在とともに、すでに近畿文化、北九州文化の影響下にあったことを知ることができる。
 古代、中津平野東部の宇佐氏によって八幡(はちまん)信仰が始められ、この地方を中心として豊国(とよのくに)は興ったようであるが、景行(けいこう)天皇の土蜘蛛(つちぐも)征伐などによって知られるように、やがて大和(やまと)朝廷の支配下に置かれた。豊国は大化改新後、豊前、豊後の2国に分かれ、豊後国の国府は現大分市古国府(ふるごう)付近に置かれた。平安中期の『和名抄(わみょうしょう)』の郷(ごう)の分布をみると、中津平野と大分平野、ついで国東半島放射谷、大野川河谷盆地、安心院盆地、日田盆地に多く、条里の遺構の分布もほぼ同様で、当時の開発状況が知られる。このころの政治、文化は宗教と結び付いていたため、社寺の建立が盛んで、とくに宇佐、国東地方には宇佐八幡、富貴(ふき)寺など六郷満山(ろくごうまんざん)の文化を伝える古寺・史跡を多数残している。荘園(しょうえん)制の時代に入ると、宇佐八幡宮、宇佐弥勒寺(みろくじ)、大宰府(だざいふ)安楽寺、由原(ゆすはら)宮、その他の権門荘領に分かれ、国領はわずかであった。これら荘園の荘官や国領の郡郷司たちは平安末期に武士化した。[兼子俊一・宮町良広]
中世
鎌倉時代に入ると、大友氏が豊後の守護として入国、22代約400年にわたってこの地を支配し、室町時代から朝鮮、明(みん)と貿易を行った。21代の宗麟(そうりん)は九州の焦点的位置を利用して、豊筑肥6か国を領有する戦国大名にのし上がり、南蛮貿易も行い、1551年(天文20)ザビエルの来府を機にキリスト教を保護、各地に教会を設立、そのほか医学、音楽、福祉などの西洋文化を入れ、京都文化の流入もあって、府内(大分市)は豊後の中心都市として繁栄した。しかし、その子義統(よしむね)は、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮出兵のとき、ひきょうなふるまいがあったという理由で1593年(文禄2)除国され、大友氏は滅亡した。[兼子俊一・宮町良広]
近世
豊臣秀吉は、豊後検地の翌1594年、中川(竹田)、福原(臼杵(うすき))、早川(府内)、杉原(杵築(きつき))、熊谷(くまがい)(安岐(あき))、竹中(高田)らの諸大名を分封した。なお豊前は、九州征伐のとき検地し、中津に1587年(天正15)黒田孝高(よしたか)が封ぜられている。これらは関ヶ原の戦いの結果、除封、転封された者があり、徳川家康によって、毛利(佐伯(さいき)、2万石)、久留島(くるしま)(森、1万4000石)、木下(日出(ひじ)、3万石)らが封ぜられた。幕末には、中津(奥平氏、10万石)、杵築(能見松平氏、3万2000石)、日出(木下氏、2万5000石)、府内(大給(おぎゅう)松平氏、2万2000石)、臼杵(稲葉氏、5万石)、佐伯(毛利氏、2万石)、竹田(中川氏、7万石)、森(久留島氏、1万2500石)の8藩があり、日田には九州の幕領を管理する西国筋郡代がいた。そのほか、肥後領、延岡(のべおか)領、島原領、天領も入り交じっていた。この小藩分立は、豊後の九州における門戸的位置を重視した豊臣、徳川両氏の、大友のような大勢力の再現防止政策によるという。したがって、多くの小城下町が発達し、これによって文化の中心地が各地にできて、人物輩出、文化普及という好結果がもたらされ、また異なった気風を生み、排他的・対立的傾向、自主独立的精神の原因ともなったようである。
 近世封建社会も農業生産に基礎を置いたので、平和到来とともに、土地開発に対する関心が高まり、遠浅海岸や川沿いの低湿地、高位河岸段丘面などが開かれ、井路(いろ)や溜池(ためいけ)の築造も盛んに行われ、今日なお利用されている。また、諸藩では特産物を奨励した。日出、杵築、府内各藩の七島藺(しちとうい)栽培、竹田藩のシイタケ栽培、日田幕領内のスギ植栽、さらに中津、日出両藩の金山、竹田藩の錫(すず)山、臼杵藩の石灰山の経営など、多くは現在の産業に連なっている。しかし、18世紀なかば諸藩の財政が窮迫してくると、各藩は一部これらの専売制化、出入り物品の課税、藩札発行、倹約令などの政策をとった。藩の誅求(ちゅうきゅう)に飢饉(ききん)さえ加わって農村の窮乏が進行してくると、藩は年貢引下げや義倉設置などの救済策を講じたが、各地に逃散(ちょうさん)、越訴(おっそ)、一揆(いっき)も起こるようになり、幕藩体制は19世紀中ごろには崩壊の危機に瀕(ひん)していた。一方、18世紀から19世紀前半にかけて三浦梅園(ばいえん)、帆足万里(ほあしばんり)、広瀬淡窓(たんそう)らの学者、教育者を輩出し、その伝統は明治の福沢諭吉(ゆきち)らに及んだのは明るい面であった。幕末の動乱に際しては、県下諸藩は進歩的役割を果たすことはできず、竹田の小河一敏(おごうかずとし)ら志士の活躍もあったが、大きな力とはならなかった。[兼子俊一・宮町良広]
近・現代
1867年(慶応3)大政奉還後、日田郡代の支配地には日田県が置かれ、1869年(明治2)の版籍奉還で各旧藩主はそのまま藩知事として旧領の土地、人民を支配した。1871年廃藩置県で、中津、府内、臼杵、佐伯、岡、日出、杵築、森、日田の9県と、熊本、島原、延岡3県の飛び地となった。同年11月統廃合が行われ、豊後一国をもって大分県を、中津県を含んだ豊前国は小倉県をつくった。1876年小倉県が廃止され、下毛(しもげ)、宇佐2郡が大分県に編入され、現在の大分県の基礎がここに確立した。1877年西南戦争が起こると、薩摩(さつま)軍は豊後に入り臼杵、竹田などを占領したが、まもなく鎮定された。
 産業は、明治初期にまず養蚕が盛んとなり、中期には繭は米麦に次ぐ産物に上昇し、製糸業も日清(にっしん)戦争後盛んとなった。ついでおこった紡績は少数大工場で行われ(1896年中津紡績、1913年大分紡績操業開始)、製材業も日露戦争後盛んになった。これら近代産業の展開は第一次世界大戦で拍車がかけられ、明治後期からみられるようになった近代的交通・通信や電気事業の勃興(ぼっこう)と密接な関係を有する。すなわち、1917年(大正6)佐賀関(さがのせき)製錬所、1919年臼杵鉄工、津久見セメント工場の操業開始をみているが、鉄道は現日豊(にっぽう)本線が、小倉から1897年柳ヶ浦、1911年大分、1916年佐伯まで延長している。重化学工業の発達は遅々としており、後進的な農業県にとどまっていた。第二次世界大戦後、諸産業の近代化を図り、農工併進に努めている。
 地方行政組織はさまざまの変遷を経て、1878年、従来の国東、速見(はやみ)、大分、海部(あまべ)、大野、直入(なおいり)、玖珠(くす)、日田、下毛、宇佐の10郡中、国東、海部の2郡は施策上の便宜から地形や歴史的伝統などを考慮してそれぞれ東西、南北に分かたれ、12郡9町1828村となったが、1889年市町村制実施により14町(おもに旧城下町)265村となった。その後も行政区画の変更はしばしば行われたが、1953年(昭和28)の市町村合併促進法が実施されてから急速に進展した。[兼子俊一・宮町良広]

産業

第一次産業人口の比率はまだ比較的高く、産物中、全国上位にあるものは、乾燥シイタケ、マダケ、スギ、クルマエビ、焼酎(しょうちゅう)、石灰岩などである。[兼子俊一・宮町良広]
農業
広い平野を欠いているため、耕地は6万7500ヘクタール(1995)、耕地率10.7%にすぎない。そのうち水田は67.6%で、中津・大分両平野と日田・玖珠(くす)両盆地にややまとまったものがある。畑は豊後水道に臨むリアス式海岸の急斜面、阿蘇(あそ)の東麓(とうろく)斜面上部、大野川流域の阿蘇溶岩台地、同下流氾濫(はんらん)原、中津・大分両平野の洪積台地にやや広く分布している。農家数6万4445戸、うち専業農家は1万4455戸(22.4%)にすぎない。経営耕地総面積5万0680ヘクタール、1戸当り0.79ヘクタールで、全国平均1.5ヘクタールに比べてもかなり少ない。別府湾南・西岸や海部(あまべ)海岸、日田地方は0.5ヘクタール未満の小農がほとんどなかばを占め、米麦作のほか、野菜、ミカン類などの栽培や林業、漁業などに従事する。他方、中津平野、国東(くにさき)半島や大野川、大分川、玖珠川の上・中流地方は、1戸当り平均1ヘクタール内外に達し、それぞれ機械力、畜力を取り入れて、県下の穀倉地帯をなす。裸麦、小麦、サツマイモは大野地方の台地にもっとも多く、野菜は、中津平野台地部のダイコン、スイカ、国東半島西部干拓地のネギ、スイカ、ジャガイモ、大野川下流のゴボウ、キュウリ、久住(くじゅう)・飯田(はんだ)高原のキャベツ、トマト、日田盆地周辺台地のハクサイ、スイカ、臼杵(うすき)川段丘のショウガなどである。1980年代以降、県内各地でオオバ、ニラ、コネギを中心に大規模な施設栽培が進んでいる。果実は、国東半島と津久見市を中心とするミカンがおもだが、需要が減少傾向にあるため杵築(きつき)市のハウスミカン、竹田地方のカボスなどの栽培に転換している。中津市東部の洪積台地ではモモ、ナシ、ブドウ、安心院(あじむ)盆地周縁の第三紀層丘陵地ではブドウの栽培が盛んである。1990年代中ごろより玖珠・九重(くじゅう)地域などで、キク、バラなどを中心に花卉(かき)の施設栽培が拡大している。国東半島南東部の放射谷から別府湾北岸にかけての一帯は、かつての杵築、日出(ひじ)、府内の各藩領にあたり、藩の保護奨励で発達した全国最大の七島藺(しちとうい)栽培地域をなし、じょうぶな畳表「青表(あおおもて)」を多産し、広く県外へ出荷していたが、1970年以降「備後(びんご)表」などに押されて産額は激減した。畜産では、肉用牛が6万2500頭で全国第12位を占め(2011)、九重火山群を中心とする西部火山地域の原野で飼育が盛んである。[兼子俊一・宮町良広]
林業
山地が多く、江戸時代に日田代官や藩が林政に力を入れたため、その影響で西部から南部の山地にはみごとな人工林がみられる。とくに日田、津江(つえ)、英彦山(ひこさん)方面のスギの美林は全国に知られ、生産額は全国第3位にある。南部の九州山地に属する一帯は、モミ、ツガ、アカマツなどが豊富。シイタケ栽培も盛んで、乾燥シイタケの産額は1399トン(2010)で全国第1位。また、竹林も多く、竹材の生産量は全国第1位である。[兼子俊一・宮町良広]
水産業
長い海岸線のわりには零細経営が多く、2004年(平成16)の生産量(海面漁業および海面養殖業)は6万0955トンで全国的には中位にすぎない。広大な干潟を有する周防灘(すおうなだ)沿岸ではアサリなどの採貝やノリ養殖、小型底引網・刺網(さしあみ)によるエビ・カレイなどの漁獲がある。国東半島沿岸、別府湾では刺網(ボラ)・底引網・船引網(イワシ)・一本釣り(タイ、スズキ)漁業が営まれている。豊後水道域ではイワシ、アジ、サバを対象とする巻網・船引網などや、タイ、ブリ、イサキの一本釣りのほか、深い入り江ではヒオウギガイ、真珠母貝、真珠、ハマチ、タイの養殖、保戸(ほと)島では近海マグロ延縄(はえなわ)漁業や遠洋マグロ漁業が盛んである。全国的にその名をよく知られているのが、速吸(はやすい)瀬戸に面した佐賀関(さがのせき)の「関さば」と「関あじ」である。[兼子俊一・宮町良広]
鉱業
金は県北から県西部の火成岩地帯に幅広く埋蔵し、金鉱業整備令の出た1943年(昭和18)当時、大小約50の金山があり、その産額は日本有数であった。1956年鯛生(たいお)鉱山だけが再開、全国3位の産額をあげるに至ったが、品位の低下などで1970年に産出を終えた。祖母(そぼ)山、傾(かたむき)山地域は錫(すず)、銅、亜鉛などの埋蔵地帯で、尾平(おびら)、豊栄(ほうえい)両鉱山は錫で全国屈指の産額をあげたことがあるが、現在は閉山している。石灰石、ドロマイト、珪石(けいせき)、蛇紋(じゃもん)岩などが津久見市を中心とする九州山地に大量に埋蔵され、とくに石灰石の生産量は全国第1位で、全国生産量の18.1%を占めた(1995)。そのほか、佐伯市木浦のエメリー(研磨材用の鉱石)、由布(ゆふ)市の白土、玖珠(くす)町のカオリン(陶磁器、耐火材の原料)、九重(ここのえ)町九重(くじゅう)の硫黄(いおう)がある。[兼子俊一・宮町良広]
工業
1960年(昭和35)以前の大分県には、めぼしい工業集積はなく、近在必要型の食料品工業、森林資源に依拠した木材工業、戦前から立地する銅精錬業などが主たる工業であり、工業後進県であった。大分市海岸部に造成された埋立工業地帯に鉄鋼と石油のコンビナートが完成した1960年代後半以降、製造業出荷額は全国平均を大きく上回るペースで増加した。1980年の出荷額割合でみると、鉄鋼業が23.3%で首位を占め、石油工業15.4%、化学工業13.0%が続き、工業構造からみて重化学工業化が急速に進展したことがわかる。石油危機以降、素材型工業が一時の勢いをなくす一方、県北部を中心に電気機械の加工組立工場の立地が進んだ。1994年(平成6)の製造業出荷額は2兆5861億円であり、九州地方では福岡県に次いで第2位、従業者1人当り出荷額では全国第9位、九州第1位となっている。業種別(出荷額ベース)では、近年増加した電気機械工業が23.4%で首位にたち、以下鉄鋼業12.2%、化学工業10.9%、石油工業7.1%となっている。かつての工業後進県は、臨海コンビナートの成立によって、全国有数の基礎素材工業基地となり、さらに総合工業地帯へと変貌(へんぼう)しつつある。地域別にみると、1994年の出荷額の51%は大分市が占める。なお有力な地場産業としては、宇佐市などの酒類、津久見市のセメント工業、臼杵(うすき)市のみそ・しょうゆ工業があり、伝統工業としては別府(べっぷ)市の竹製品、日田市の家具・陶器、中津市の和傘などが知られている。[兼子俊一・宮町良広]
開発
工業立県にもっとも重要な役割を果たしたのは、大分地区新産業都市の建設である。「遠浅ドン深」といわれる埋立てに有利な地形条件を生かして、大分鶴崎臨海工業地帯の造成が1959年(昭和34)に始まり、工業用水道の工事とともに、大野川河口左岸の埋立地工事が相次いで完成した。1963年別府(べっぷ)湾沿岸3市7町の大分地区新産業都市指定が閣議決定をみ、一方、石油、鉄鋼の二大基幹産業の誘致に成功、1964年に九州石油、1969年九州電力、昭和電工、1972年に新日本製鉄(現、新日鉄住金)がそれぞれ操業を開始した。このように高い工場立地率を実現したため、大分地区は「新産業都市の優等生」とよばれた。1973年以降、大野川河口右岸の開発がスタートしたが、石油危機後の産業構造の変化や環境保全を掲げる住民運動の激化などにより、開発の速度は大きく減じた。その後、1980年代の開発を特徴づけたのは、県北国東(くにさき)テクノポリス計画(1984年通産省指定)である。この計画は、1979年に県が打ち出した「臨空工業地帯構想」を基盤とし、国東半島にある大分空港とその周辺に、空輸をおもな輸送手段とするエレクトロニクス産業など「軽薄短小」型産業を導入しようとした。機械工業の地方分散が全国的に進むなか、キヤノン、ソニー、TDK、日本電気など電気機械工場が、中津・宇佐平野や国東半島東部に立地した。また、ユニークな地域開発として有名なのは、1979年に県知事により提唱された一村一品運動である。県下の各自治体は農林水産品を中心とした特産品の産地づくりを進め、内発型開発の先駆例となった。大山町(現、日田市)、湯布院(ゆふいん)町(現、由布市)、姫島村などは、住民参加型地域づくりの先進例として知られるようになったが、一方で人口減少など課題もある。[兼子俊一・宮町良広]
交通
1996年(平成8)、県中央部を東西に横切る九州横断自動車道(長崎―大分)が全線開通し、自動車交通の大動脈となっている。また、日出(ひじ)ジャンクションで宇佐別府道と大分空港道路が連絡する。県北部から東部の海岸寄りを南北に走る国道10号(北九州―鹿児島)は長い間、幹線道路として機能してきたが、交通混雑が慢性化したため、そのバイパスとして北大道路(北九州―大分)が全通した。しかし大分以南の国道10号や、竹田市へ向かう国道57号は本格的自動車道への移行が遅れている。鉄道はJR九州によってカバーされており、国道10号と平行する日豊(にっぽう)本線(1923年開通)を主要幹線とし、大分駅から、熊本方面の豊肥(ほうひ)本線(1928年開通)、久留米(くるめ)方面の久大(きゅうだい)本線(1934年開通)が分岐している。瀬戸内海に面するという条件を生かして、海上交通が盛んである。旅客港としてもっとも重要なのは別府(べっぷ)港で、阪神、四国の主要港との間にフェリーボートが通じる。西大分港からは神戸へのフェリーが就航する。陸上交通の不便な豊後水道沿岸では、佐賀関(さがのせき)・臼杵(うすき)・佐伯(さいき)が愛媛県の港へのフェリー基地になっている。貨物港としては、セメントの積出港である津久見港や物資が集散する佐伯港があるが、1994年にFAZ(ファズ)(輸入促進地域)の指定を受けた大分港は、コンテナ・ターミナルが新設されるなど物流ネットワークの拠点として整備が進んでいる。航空路は、国東(くにさき)半島地先の海上に造成された大分空港(1972年開港)から、東京、大阪、名古屋への路線がある。国際線は1992年以降ソウルへの路線が開設された。[兼子俊一・宮町良広]

社会・文化


教育・文化
江戸時代の藩校は、1726年(享保11)岡(竹田)藩の輔仁(ほじん)堂(のち由学(ゆうがく)館)が早く、府内藩の遊焉(ゆうえん)館、杵築(きつき)藩の学習館、臼杵(うすき)藩の集成館、日出(ひじ)藩の致道館、佐伯(さいき)藩の四教堂など、各藩に藩士子弟教育のために設けられた。佐伯藩は図書8万冊を集め、佐伯文庫として知られる。森藩(修身舎)を除く諸藩校は、幕末には洋学、医学を取り入れ、府内、岡藩などは病院をもっていた。庶民教育としての寺子屋は、現在確認されているものが735ある。このうち、一畑(いちはた)村(豊後(ぶんご)高田市)の戴星(たいせい)堂は1573年(天正1)と、きわめて古い設立を伝えるが、多くは幕末の設立で、寺院、庄屋(しょうや)、武士宅などがその場となった。私塾は明治のころまで含めると166が確認されている。三浦梅園(ばいえん)の梅園塾、脇蘭室(わきらんしつ)の菊園、広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かんぎえん)、帆足万里(ほあしばんり)の西精舎(せいえんせいしゃ)、毛利空桑(くうそう)の知来館などはとくに著名である。
 現代の学校施設をみると、多くの小規模学校や分校の存立にもみられるように、複雑な地形は県民の教育文化活動の障害ともなっている。高等教育機関は1876年(明治9)の大分師範学校、1907年(明治40)の大分女子師範学校、1921年(大正10)の大分高等商業学校の創立に始まり、第二次世界大戦後の1949年(昭和24)には国立大分大学が発足した。1976年(昭和51)には国立大分医科大学が設置されたが、2003年大分大学と統合した。ほかに国立大分工業高等専門学校、県立看護科学大学、県立芸術文化短期大学、私立別府大学、私立日本文理大学、私立立命館アジア太平洋大学、私立の短期大学4がある。図書館は移転新築された県立大分図書館のほか公立13。博物館は5、博物館相当施設10がある(2008)。
 新聞は、『大分一週新聞』が1873年(明治6)、『田舎(いなか)新聞』が1876年と創刊は早かったが、短命であった。現在、地方日刊紙として、1886年創刊の『豊州新報』と1889年創刊の『大分新聞』が戦時統合令によって1942年(昭和17)合併した『大分合同新聞』が大分市に、1954年(昭和29)発刊の『今日(こんにち)新聞』が別府市にある。放送は、NHK大分支局が1941年、ラジオ大分(現、大分放送)が1953年開局した。テレビ放送は、NHK大分放送局、大分放送が1959年開始し、1970年にはテレビ大分、1993年(平成5)には大分朝日放送が開局した。ほかにFM大分がある。
 県文化の水準をも示すものの一つに大分県芸術祭がある。文芸、美術、音楽、舞踊、演劇、児童文化、生活芸術など、毎年100前後の団体が参加している。その殿堂としての県立芸術会館が1977年大分市に開館した(2015年閉館)。創作県民オペラ『吉四六(きっちょむ)昇天』は1981年中国公演を行うなど、大きな成果を収めた。また、市町村単位の文化祭や芸術祭も盛んである。一村一文化運動の名のもとで、音楽家滝廉太郎(たきれんたろう)を記念した音楽のまち(竹田市)、彫刻家朝倉文夫の芸術の里(豊後大野市)などの動きがある。[兼子俊一・宮町良広]
生活文化
瀬戸内海に臨む地理的位置からか、言語は少数の方言を除いては標準語と大差がなく、アクセントの面でも九州的特異性の薄いことが指摘されているように、県単位の民俗の特性づけは困難である。しかし、民俗的事象には地域的相違が多い。これは、地形的分裂性や小藩分立などの自然的・歴史的環境からくるものであろう。すなわち、宇佐、下毛(しもげ)地方は方言の面で「あなたな」という呼びかけの「タナー」、同意を示す「チコ」は豊前(ぶぜん)特有である。国東(くにさき)半島の国東・速見(はやみ)地方は六郷満山(ろくごうまんざん)文化の栄えた所で、幹線交通路から外れ、真宗教団勢力の浸透が弱かったため、民俗の宝庫として注目されている。筑後(ちくご)川上流域の日田・玖珠(くす)地方は伊勢(いせ)信仰が強く、芸能の面でも筑後の「楽(がく)」が浸透している。大野川上・中流域の大野・直入(なおいり)地方にはお日待(ひまち)や庚申(こうしん)信仰が強く残存し、県南の海部(あまべ)地方には風流(ふりゅう)を伴う杖踊(つえおどり)が濃厚で、日向(ひゅうが)系の岩戸神楽(かぐら)や臼太鼓踊(うすだいこおどり)が入っている。
 明治末期以後、衣は安価な綿織物が普及し、農漁村では一日中仕事着で過ごすのが普通で、とくに普段着というものはなかった。ただ農閑期などには長着(ながぎ)を着、夏はコギンなどとよぶ短着(みじかぎ)を着た。仕事着は山着(やまぎ)、野良着(のらぎ)といい、寒くなれば袷(あわせ)、アツシ、ドウブクなどを重ね着する。第二次世界大戦時に流行したもんぺは戦後も用いられており、前掛けを欠かさない。頭部には、男は手拭(てぬぐい)で鉢巻をし、女はあねさまかぶりをする。冬は男女とも頬(ほお)かぶりが普通である。日よけには編笠(あみがさ)や菅笠(すげがさ)をかぶり、雨具には藁(わら)、シュロ、カヤ製の蓑(みの)を用いた。腕には筒型の腕ぬき、手には手ぬき(手甲)、脚には脚絆(きゃはん)を男女ともに着けた。足には、仕事時に足半(あしなか)、草鞋(わらじ)を、平常は草履(ぞうり)、下駄(げた)を履いた。
 昔の食事は貧しく、山村では麦、アワ、ヒエ、農村でもこれらにダイコン、サツマイモを切り込んだカタメシ、麦を主に少量の米と野菜を入れて、みそ、塩で味つけした雑炊が多く、海部地方ではサツマイモの比重が大であった。団子を引き伸ばしてみそ味の野菜汁に入れて煮る団子汁は今日代表的郷土料理になっている。温湯でこねた小麦粉に賽(さい)の目に切ったサツマイモを混ぜて蒸す石垣餅(もち)も今日間食につくられる。海岸地方では魚料理(スリミ、リュウキュウ、サツマなど)がくふうされているが、海から遠い竹田地方ではニベ、アラ、ハタなどの魚を捨てるところなく利用する頭(あたま)料理がある。豆腐入り野菜料理にはけんちゃん汁がある。
 農村では、屋敷は南面して、北西に防風林をもつことが多く、大野川デルタでは盛り土上に家を建て、防水林を上流側に有する。漁村には高い石垣をみかける。母屋(おもや)の前に籾(もみ)干しなどをするツボ(中庭)があり、両側に別棟の馬屋、納屋(なや)、土蔵などがある。屋根型には入母屋(いりもや)、寄棟(よせむね)、切妻(きりづま)があるが、宇佐、下毛、日田、大野、直入地方には、妻の棟の近くに小型の煙出しがついた入母屋が分布し、国東半島から県中部にかけては四つ棟という寄棟が多い。日田・玖珠地方には鍵屋(かぎや)や、土蔵の天井を土で塗り草屋根をのせたサヤグラもみられる。母屋の戸口を入った土間はニワ、起居に使う畳または板敷きの部分は座(ざ)または上(うえ)とよび、間取りは田の字型が基本的で、間ごとの名称は地方的相違が大きい。[兼子俊一・宮町良広]
民俗芸能
神楽(かぐら)は岩戸神楽が全県的に普及している。もっとも広く分布しているのは、旧大野郡を中心に旧大分郡から旧直入郡に伝わっている大野系神楽で、豊後大野市深山八幡(ふかやまはちまん)の深山流、同市浅草八幡の浅草流、同市上津(あげつ)八幡の上津流(犬山神楽)および同市御嶽(おんたけ)社の御嶽流と多くの流派が互いに影響しあっているとみられているが、演劇的要素に富み、勇壮活発である。豊前系神楽は植野(うえの)神楽(中津市)が代表的で、47番もの番付をもち、これらを33番ずつに組み合わせて、湯立(ゆたて)、神阪(かみさか)、年回(ねんかい)の各神楽を編成している。湯立神楽は豊後系がササで熱湯を浴びるのに対し、湯釜(ゆがま)の下の燠(おき)の上を歩いて渡る点が大きく異なる。国東・速見地方に分布するものは大野系との関連も考えられ、津島神楽が代表的で、大蛇(おろち)退治に火薬の使用を早くから導入している。そのほか現在、九重(ここのえ)町引治(ひきじ)の玖珠神楽神祇(じんぎ)社だけに伝えられる玖珠神楽、佐伯市蒲江(かまえ)地区富尾神社だけに伝わる蒲江神楽、同市の佐伯神楽などがある。また、お田植祭は、杵築市の若宮八幡社、奈多(なだ)宮、国東市諸田山(もろたやま)神社、城山社、豊後高田市の別宮(べつぐう)八幡社など、国東半島に濃密に分布し、田植作業を滑稽(こっけい)な所作を交えた点で共通しており、大和(やまと)地方との親近性が強く感じられる。宇佐神宮や日田市の大原八幡宮のものは厳粛な神事である点が共通している。
 国東・速見地方には、腰蓑(こしみの)をつけ、前に締め太鼓を下げ、背に旗差し物を立てた念仏踊系の楽(がく)が盛行していたようであるが、今日は国東市の吉弘(よしひろ)楽(国指定重要無形民俗文化財)、杵築市の若宮楽、立石(たていし)楽だけが残存している。日田・玖珠地方では10月に杖(つえ)楽が奉納される。現在は玖珠町の山下岩戸楽、滝瀬楽、九重町の宝楽、町田楽、日田市の本城(ほんじょう)くにち楽、大野楽、磐戸(いわと)楽などが続いている。河童(かっぱ)楽と通称される筑後系の河童封じの楽が下毛・玖珠両地方にある。中津市の宮園(みやぞの)楽、玖珠町の大浦楽である。日向(ひゅうが)系と思われる県内唯一の臼太鼓踊(うすだいこおどり)が佐伯市宇目千束(せんぞく)(千束楽)にある。風流(ふりゅう)、杖踊は県南地方で4月に奉納され、現在は臼杵(うすき)市の東神野(ひがしこうの)、同市野津町の西神野(にしごうの)、佐伯市の弥生(やよい)大坂本に残存している。
 獅子舞(ししまい)は、豊後に広く分布し、中心は大野・直入地方である。竹田市の阿鹿野(あじかの)獅子は規模が大きく、野原を勇壮に乱舞する。大分市敷戸(しきど)のお獅子様は古い姿を伝えていたが、1960年(昭和35)ごろ絶えた。
 中津市伊藤田(いとうだ)の古要(こよう)神社では、閏(うるう)年10月12日夜に操り人形(傀儡子(くぐつ))による古要舞と古要相撲(すもう)(国指定重要無形民俗文化財)の神事がある。舞は両腕を上下させるだけの簡単なもの。相撲も、東西から1体ずつ出て、にぎやかな囃子(はやし)にあわせて勝抜き掛り相撲をとり、最後に小兵の住吉(すみよし)様が勝つ。中津市北原(きたばる)の原田神社で毎年2月4日に公演される「万年願(まんねんがん)」の北原人形芝居は、疫病流行時に病魔退散を祈願して奉納されたのに始まると伝える。修正鬼会(しゅしょうおにえ)が国東地方に伝わり、豊後高田市の天念寺修正鬼会、また国東市の岩戸寺修正鬼会、同市成仏寺(じょうぶつじ)修正鬼会は国の重要無形民俗文化財に指定されている。[兼子俊一・宮町良広]
文化財
国宝宇佐神宮本殿は檜皮葺(ひわだぶき)切妻屋根、白壁朱漆柱の壮麗な建物で、神明造の内院の前に外院を置いた形をなし、古い神社本殿の一形式を伝え、八幡造(はちまんづくり)といわれる。宇佐神宮の勢力は県下一円に及び、大分市柞原(ゆすはら)八幡宮には白鳳(はくほう)文化の銅造仏像(国指定重要文化財)が伝えられ、杵築市奈多宮は宇佐神宮の古い御神体を多数蔵し、木造僧形八幡神坐像(ざぞう)、木造女神坐像(ともに国指定重要文化財)は藤原後期から鎌倉時代にかけての作。宇佐弥勒寺(みろくじ)の勢力下にあった国東半島は六郷満山とよばれて、谷々に多数の寺院を残す。豊後高田市蕗(ふき)の国宝富貴寺(ふきじ)大堂(おおどう)は桁行(けたゆき)3間(ま)、梁間(はりま)4間の宝形(ほうぎょう)造、平安時代に行われた阿弥陀堂(あみだどう)建築の好例で、九州最古の遺構である。内陣には四天柱に仏菩薩(ぶつぼさつ)、宝相華(ほうそうげ)、唐草(からくさ)などが、来迎(らいごう)壁には浄土曼荼羅(まんだら)が、長押(なげし)の一枚板には仏菩薩、明王(みょうおう)、天部、天人らがそれぞれ極彩色で描かれている。本尊阿弥陀如来(にょらい)坐像(国指定重要文化財)の材は建物と同じカヤの木で、藤原仏の典型とされている。この近くの真木(まき)大堂は木造の阿弥陀如来坐像、四天王立像、不動明王と二童子立像、大威徳(だいいとく)明王像など9体の藤原仏を所蔵し、往時の仏教文化の隆盛を裏づける。日田市永興寺(ようこうじ)も藤原・鎌倉時代の木造仏像8体を所蔵し、いずれも国指定重要文化財。また、豊富な石造美術も特色である。臼杵磨崖仏(まがいぶつ)(特別史跡、1995年国宝に指定)は、臼杵川の谷の阿蘇溶結凝灰岩の岩壁に、丸彫りに近い数十体の諸像が彫刻され、壮観である。藤原~室町時代のもので、秀作は古園(ふるぞの)石仏の中尊大日如来仏頭、ホキ石仏の勢至菩薩(せいしぼさつ)像、山王山(さんのうさん)石仏の童顔釈迦(しゃか)如来坐像である。大野川の谷に緒方宮迫(おがたみやさこ)東石仏、同西石仏、菅尾(すがお)石仏(豊後大野市)、大分川の谷に高瀬石仏、大分元町石仏(大分市)の各石仏があり、平安時代の作とされ、それぞれ国指定史跡である。豊後高田市の熊野磨崖仏(国指定史跡、国指定重要文化財)は大日如来と不動明王で、雄大さで知られ、藤原末期の作と推定されている。なお、国東半島を中心に国東塔が多く、石造宝塔およそ60基。国東市の岩戸寺(いわとうじ)石塔は弘安(こうあん)6年(1283)、杵築市の財前家(ざいぜんけ)宝塔は元応(げんおう)第三(1321)の銘がある。板碑約300が半島の谷々に国東塔とともに集中している。
 キリシタン遺跡・遺物も多く、竹田市殿(との)町の洞窟(どうくつ)礼拝堂、同市中川神社の十字章と1612年(慶長17)の銘のある銅鐘(国指定重要文化財)、竹田市直入町長湯(ながゆ)の「INRI」の線彫りがあるT字形墓碑は珍しく、臼杵市野津(のつ)町、由布市湯布院(ゆふいん)地区などにも多くの墓碑が残る。小藩分立の時代を経たので城跡も多く、各城下町に輩出した学者、教育者、芸術家の旧宅なども多数ある。岡城跡、咸宜園(かんぎえん)跡、旧竹田(ちくでん)荘、三浦梅園(ばいえん)旧宅、福沢諭吉旧居(いずれも国指定史跡)などはそれである。[兼子俊一・宮町良広]
伝説
代表的な伝説に豊後大野市三重町地区に伝わる「真名野(まなの)長者」がある。炭焼き男が神の恩寵(おんちょう)にあずかって巨額の黄金を得たという物語は、中部・東北地方にまで分布している「炭焼き長者」に共通する。しかし、真名野長者は隣国の宇佐八幡の信仰と濃厚に結び付いているのは注意を要する。おそらくこの種の古伝ともいうべきであろう。その伝播(でんぱ)の役割をつとめたのは鋳物師(いもじ)や、金属売買を業とする旅行者と推測される。なお、八幡信仰の影響を受けているとみられる「鶴女(つるじょ)市太郎」がある。これは高瀬川の「人柱伝説」であるが、いけにえになる母と子のツルとイチの名は、他国の人柱伝説にも散見されるところをみると、そこになにか特別の意味があったようである。耶馬渓(やばけい)の「青ノ洞門」は、菊池寛の『恩讐(おんしゅう)の彼方(かなた)に』で有名になった。別府湾には「瓜生(うりう)島沈没」の伝説があり、湾内の海底の調査を行ったところ、島の遺品らしいものを発見したという。この伝説は史実から派生したとみてよい。杵築には「鶴権現(ごんげん)」がある。つがいのツルの雄をしとめると首が切り取られていた。その雌を追ってようやく射落としてみると、雌が羽根の間に雄の首をしっかり抱いていた。猟師は鳥の愛情の美しさに強く胸を打たれ、祠(ほこら)をつくって供養したという。九重町千町無田(せんちょうむた)に、無道の行いを重ねたために家運が傾き、ついに没落した「朝日長者」伝説がある。由布市湯布院町湯平(ゆのひら)の「牡丹(ぼたん)長者」は、池の主の病をいやし、日ごろ善根を積むゆえに長者の田地に水が絶えず、のちのちまでも栄えたという。国東半島の「仁聞(にもん)菩薩」には数々の奇跡の伝説がある。また、民話ではあるが、「吉四六(きっちょむ)さん」は大分県を代表するもので、「吉四六屋敷跡」と称する石碑が臼杵市野津町にある。[武田静澄]
『『角川日本地名大辞典44 大分県』(1980・角川書店) ▽『大分百科事典』(1980・大分放送) ▽『日本地誌21 大分県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県』(1975・二宮書店) ▽賀川光夫他著『大分の歴史1~10』(1976・大分合同新聞社) ▽染矢多喜男著『日本の民俗 大分』(1973・第一法規出版) ▽渡辺澄夫著『大分県の歴史』(1971・山川出版社) ▽『大分県史料』全25巻(1952~1965・大分県教育研究所) ▽『大分県政史』全4巻(1955~1958・大分県) ▽『大分県の歴史と文化』(1961・毎日新聞社) ▽兼子俊一他著『大分県の地理』(1962・光文館) ▽『大分県郷土伝説及び民謡』(1931・大分県) ▽市場直次郎編『豊後伝説集』(1932・郷土史蹟伝説研究会) ▽梅木秀徳・辺見じゅん著『大分の伝説』(1980・角川書店) ▽渡辺澄夫・兼子俊一監『大分県風土記』(1988・旺文社) ▽『大分歴史事典』(1990・大分放送) ▽『おおいた戦後五〇年』(1995・大分合同新聞社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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