日本の家も西欧のファミリーも,その基本的機能は成員の生活保障にある。だからこそ血縁者のみでなく,他人もいれる必要がでてくる。英語のファミリーfamilyの原義は家の使用人たちであった。歴史とともに社会が安定し,生活が容易になれば,他人を必要とせず,血縁につながる近親者の小集団に縮小してくる。しかし,家の血縁に対する考え方は国によって違う。
→家族
日本
結合原理としての家--伝統と変容
日本の場合,血縁尊重ということがよくいわれる。しかし,純血を尊ぶという点では西欧の方がより厳格であり,自他の血を混同しない。家の安定,永続を守るためには家産相続が重要だが,この権利と義務を,西欧では血縁者に限ろうとしてきた。しかし,日本には養子制度があり,他人であっても家のために役立つ人材なら,自分の子をさしおいても後継者とすることがある。生活保障のため血縁の擬制,拡大が行われるのである。血縁の拡大は,個々の家内部はもとより,家と家の連合,たとえば本家・分家の同族団の強化にも機能した。草鞋(わらじ)脱ぎ分家,雇人分家などがそうである。さらに明治以降,財界もこの原理によって編成され,同族会社や財閥が作られた。そして,それはさらに,政・財・官界,上流支配階級の間に,政略結婚による閨閥の網の目をはりめぐらした。こうして日本の権力支配は,財閥が,たとえば三井は政友会,三菱は民政党というように,特定の政党,さらに官僚と結びつくかたちで行われた。政界は財界に政治資金を仰ぎ,それと同時に財界の意を体した政治を行う。さらに官界の人事を握り,財界に有利な行政を指導させる。こうした3者の関係をつけているのが,前述した閨閥,それに学閥,藩閥,同郷閥,さらにもう一つつけ加えれば官僚としての軍閥などであった。かかる支配体制が西欧の権力構造といちばん大きく異なるところは,権限が順次下方に移譲され,たてまえでの最高の権力者は象徴的存在にすぎず,実力は中間層,たとえば昭和初期の軍閥でいうと青年将校たちにあったことである。これは後述する日本の父権のあり方とも関連するものであった。この関係は国家体制そのものにまで拡大された。その結果が明治以降の天皇制家族国家の確立である。天皇家を総本家とする一国一家の挙国体制であった。国家という権力機構が骨肉の愛情関係をよそおう。この体制のもとで〈義は君臣にして情は父子〉の淳風美俗が成立し,忠と孝が一致した。天皇の名を掲げた,時の最高権力者はみずからが責任をもつ西欧的独裁者ではなく,無責任,かつ象徴的な日本的支配者になった。この体制は後発資本主義国が,すでに一段落していた植民地獲得競争に割りこむためのやむをえない挙国一致体制でもあった。しかし,日本の進路として,幸徳秋水らのように西欧列強の圧迫に対してアジア諸国と連帯していく道を主張した者がいなかったわけではない。
封建時代の家は決して単一ではなかった。士農工商など身分や階級,また地域によってもそれぞれ異なった習俗的家をもっていた。明治国家が体制の土台としてとり入れた家は,その中でも士,すなわち武士の家であった。明治民法に規定された家は,多少の変容はうけながら,まぎれもなく武士の家であった。かかる明治的家の中でもっとも苦しんだのは,〈角のない牛〉といわれた働く女性であった。もちろん,女性を非人間的な状況にのこしておいて,男性だけが人間的であるはずはない。男は男なりに,社会の底辺で働く者として,あるいは侵略戦争にかり出され,さらには権力者であっても,人間性がゆがめられたのは当然である。これに対して反抗の声はもちろんあがった。しかし,不忠不孝に対する弾圧は厳しい。政治,労働,言論,文学など,あらゆる運動,活動においても家と国家の本質に迫る批判は決して許されなかった。たとえば文学における自然主義は,近代文学史における一応の文学革命であり,作家たちは家に対する反抗を文学生命としたが,彼らの態度が無理想,無解決,本能主義と自称するとおりであっては,明治後半,早くも露呈した資本主義の矛盾である階級対立と国家権力の役割を理解しえず,あるていど社会批判の役割を果たしながらも大正に入ると沈滞してしまった。
この運動の主体は多く農村の上流階級たる地主の子弟たちであり,彼ら作家たちの反抗は,伊藤整のいう〈逃亡奴隷〉として都会の文壇に逃げこんでの家批判であって,またそれが国家批判への視点を欠いたがゆえに,大きな力とならなかった。女性解放論にもこれと似た状況があった。何人かの女性が,都市ブルジョアないし農村の地主の家の中から,観念的な解放をとなえても,それはたんなるお嬢さんの〈紅い気炎〉のように受けとられがちであった。家も豊かで余裕があったからそれを許容しえたということもある。これでは実際に多くの女性の共感を得ることはできなかったであろう。
日本の家で家父長権の強さがよくいわれる。しかし,日本の家父長権はそんなに強かったか。日本の場合,家長権と父権は切り離して考えるべきであろう。中国では父親そのものが絶対的権威であった。たとえ父親が非理非道であっても,子は父親に絶対服従しなければならない。孝が最高の道徳であった。日本の父親にそんな力はなかった。父親が養子なら家付き娘である母が強かったし,父親がいなければ,母親が家長となった。また父親が絶対的権威をもっていても,実は母親がそれを支持しているかぎりのことであった。母親は父子の対立の間に入って,それを和らげ,家の生活を守ったのである。島崎藤村の小説《家》における橋本家のお種(藤村の姉がモデル)がその好例である。
太平洋戦争の敗北により,天皇制家族国家は崩壊した。しかし,日本の社会結合原理は強かった。中国系アメリカ人の人類学者シューF.L.K.Hsu(1909- )はそれを〈縁約の原理〉とよぶ。契約性と血縁性をもつからである。この原理は,アメリカの契約,旧中国の血縁の原理に比較して,混乱と停滞を克服するものをもっていた。家元制度はその原理の実現であった。前述した養子制度もそのとおりであろう。この縁約原理が日本の結合原理となり,企業の日本的経営(いわゆる日本株式会社)を生んだ。これは戦後の家の歪曲と関連している。現在の家は父親不在,教育ママ肥大化の問題をもつが,これは企業に家が丸抱えされている現実をしめす。核家族では生活保障機能が不十分である。父親は家を外に,国家と企業の合体した日本株式会社に忠誠をつくさざるをえない。しかし,日本株式会社に丸抱えされるのは全国民ではない。激しい選別が行われる。学歴主義が横行し,受験戦争が熾烈化する。国際的には経済摩擦から日本不信の声もおこっている。戦前の体制に代わる企業制家族国家にいつまで依存していられるだろうか。検討すべき時期がきている。
→家族制度
執筆者:川本 彰
古代
日本古代の〈イヘ〉は,一般に家族のすまいをさす言葉であった。かまどを意味する〈ヘ〉と同系の言葉とする説もあるが,イヘのヘは上代特殊かなづかいの甲類のヘ,かまどのヘは乙類のヘで発音が異なっていた。古代には,個々の建物は,ヤとかイホ,ムロ,クラなどと呼ばれ,イヘは建物そのものをさす言葉ではなかった。また,家という漢字はイヘとともに〈ヤケ〉という日本語を表記するためにも用いられたが,ヤケは,堀や垣でかこまれ,そのなかにヤ(屋)やクラ(倉)をふくむ一区画の施設をさす言葉で,朝廷に属するミヤケ(屯倉)のほか,オホヤケ(大きいヤケ),ヲヤケ(小さいヤケ)など,さまざまなヤケが重層して存在していたと考えられる。ヤケは農業経営の拠点でもあり,所有や相続の対象となる古代社会の重要な単位であった。ヤケが朝廷のミヤケのように必ずしも家族に結びつかないのに対して,イヘは家族と密着した言葉であり,家族のすまいがイヘであった。ただ古代には,ヤケを持つとか,ヤケを嗣ぐという観念は存在したが(例,人名にも大伴家持(やかもち)・石上宅嗣(やかつぐ)),イヘをもつとか,イヘをつぐという観念は存在していなかった可能性が強い。イヘは家族のすまいとともに,そこに住む家族の集団をさす言葉でもあったが,当時の家族はまだ,それほど強固な集団ではなかった。したがって家をそのまま戸(こ)に編成するのが律令の規定であったが,実際には家は政治的に編成された戸とは重ならない場合が多かった。
当時の家族の実態は父と子,夫と妻が別々の財産をもっていることが多く,婚姻にともなう居住も,夫方居住,妻方居住,新処居住のいずれも存在したと想定される。また父とその男子が同じヤ(屋)に住むことは一般にはなかったと想定される。したがって家が父から長男へ継承されるという近世的な家の制度は,古代社会には存在していなかった可能性が強い。もっとも,始祖との関係を原理とするウヂ(氏(うじ))の制度に対して,律令は父子の関係を基本とするイヘの制度を創設し,それが後の家の制度の源流となったと考えられるが,《愚管抄》(1220成立)に明確にあらわれるような〈家をつぐ〉という観念が,はっきりした形で成立してくるのは,院政期ころからの可能性が強い。
→戸
執筆者:吉田 孝
中世
婚姻を核とする一定の親族集団を〈いえ〉と呼ぶことは古代にすでに行われていたが,中世以降注目されるのは,家が単なる婚姻親族の人的側面に対する呼称であるだけでなく,社会生活全般の基本単位となっていった事実であろう。
中世に確立する家とは,種々の点からみて,以下の四つの側面を備えたものと考えられる。第1に,家は人的には夫と妻を核とし直系尊族・嫡系子孫を不可欠の要素とし,多くの場合傍系子孫・親族や非親族使用人(家人(けにん),所従,下人,奉公人等)をとりこんで構成されていた。第2に,家は同時に私産(土地,家屋,動産)所有の単位であり,家の成員は成員としてとどまるかぎり主要な私産を自由に個人的に所有できず,家長の一括所有または彼の管理の下に使用するのが通例であった。家の形成とともに作成された貴族・武士らの譲状にはこのようなあり方が如実にうかがえる。第3に,このような私産に支えられた家は経営や社会的活動の基本単位であった。貴族の荘園領有や官人としての職務が彼の家の政所(まんどころ)や家人らに担われていたこと,武士の所領経営や戦闘が上述の一族や家人・所従らによって行われた事実などはこれをよく示している。第4に,以上の条件をもつ家は,それがもつ社会的機能を公的に果たすべき単位として法的・社会的に理解されていた。朝廷が摂関の地位を摂関家に,官務の職を小槻家に認め,幕府が御家人役を御家人の家に求め,惣村の寄合が各百姓の家に惣の所役を課したことなどはその典型事例である。
中世において家はこのような属性をそなえてあらゆる分野で社会生活の公的な基本単位となってきたのであるが,それゆえにそれを実現する場や担い手の集団の中に独自な論理や秩序を生み出した。まず家は外との関係で排他的な空間を構成していた。貴族諸家や寺社家あるいは武士の屋敷が四囲を塀で囲み,その中に屋敷神をまつり他人が門内に自由に入れなかった事実は端的にこれを示すものであるが,家が上述の諸要素を備えるに至れば,内側から外に向けてこのような力が働くのも必然であろう。次に家の内部に注目すると,上述の成員は婚姻,血縁,主従の縁を通して相互に固く結びつき,もっとも濃密な人間関係を形成していたが,外に向かって家を代表する家長(家長者,家督,惣領)とそれをつぐ嫡系子孫の地位は,主として外的契機に触発されながら,家の発達とともに強められ,それ以外の成員はしだいに従属的地位におしこめられるようになった。武士の家において,その成立期にあたる鎌倉時代に内部的には共和的で幕府との関係上惣領が所役勤仕のために一族を率いる惣領制が展開し,武士相互の抗争と政治的進出が激しくなる南北朝以降に家督の単独相続と家中への独裁が形成されるのは,この過程を如実に示すものであり,公家・武家を問わずこの中で家長が家長を頂点とする家のあり方を示す家訓,置文類を作成するようになるのは,それが当時いかに強く自覚されていたかをよく示している。
ところで家の発達が,家長の地位強化という形ですすむとすれば,その中で各家が固有に担う社会的機能を存続させようとする社会の期待は強まるはずだから,それは,家の自己保存の欲求を支え,強化された家長の地位の継承という形で,家の継承を確立させることになるだろう。そして,その過程を通して本来父母双系的な関係のつよかった親子関係は父子の系で統一されるに至ると見通されるのである。貴族諸家・武家ともにおのおのが家を確立する時期になると家長の嫡子への継承を中軸とする(したがって傍系親族を多くのせない)父系の系図がつくられ,また家の開祖となる直系の先祖をまつる堂廟を建てて祭祀を行うようになるのは,こうした家長を軸とする父系の家の継承が祖霊をうけつぐという意識で正統化され,系図と祭祀で確認されていたことを示すものである。
中世にこのような共通の性格をもって形成された家は,実際には身分・階層・分野によって多様な形態をとっていた。皇室・貴族の家は公家・諸家と呼ばれ,家人をかかえ職務と私産を父子関係で継承しながら形成されてきたが,その地位が個人的に朝廷から与えられる面が残っていたこともあり,家長の排他的権限は弱かった。武士の家は武家と呼ばれ,職務と所領および家人・従者を父子関係で継承する形で成立するが,ここでは軍事集団としての性格上,家長の一族・家人・所従らへの支配はもっとも強力に貫徹した。また婚姻を必須の条件としない寺社においても,資産や地位は父子に擬した師資の間に継承され,家的世界がつくられて寺社家と呼ばれたが,構成員である僧侶・神人(じにん)たちは神仏をかかげて平等に結合している面が強く,一般の家のごとき家長支配は貫徹しなかった。さらに農民・商人・職人等は家族的経営体が在家の名で上から把握されたが,直接生産者としての性格上,私産や地位の確立や継承はもっとも不完全であったと考えられる。
身分・階層・分野によって以上のような多様性をもつ家は,成立の歴史にも差異をもっていた。中世の〈家〉の完成した形が上述の4条件を充足するものとすれば,公家・諸家や寺社家あるいは源平のごとき貴族的武家において家はもっとも早く平安後期の時代に形成され,在地の武士・領主は次いで鎌倉時代のころに本格的に家を形成し,農民・商人・職人等はもっともおそく室町・戦国時代のころ,それも上層部でようやく家を構成できるようになったと見られる。こうした時代的差異の生ずる理由を全面的に明らかにできる現状ではないが,古代において律令国家に組織されて公的人間結合体としての地位をもっていた氏(うじ)の下で,それに対抗する新しい質の集団〈家〉が元来私的な位置しか与えられていなかったことを考えれば,一通りの見通しを立てることができよう。この下で家の力が大きくなって公的地位を得ようとすれば,それは公家諸家・寺社家・武門級武家という朝廷を構成し動かしうる権門勢家のレベルでこそもっとも早く可能であり,家をつくろうとする地方領主や農民等はこれに家的な保護を仰いで家人となって従属し,権門の家としての成立を促進したと考えられるからであり,また地方の武士・領主はそれを結集した鎌倉幕府の下でようやく家を構成するに足る公的権限が認められたと見られ,さらに農民・商人・職人のレベルでは,地下請(じげうけ)を行ったり,惣村・地方都市を彼らが担えるようになった室町・戦国時代に至って初めて,家を保持できる経済的・社会的条件を獲得できたと考えられるからである。結局日本中世の家は,律令制を前提とする求心的な荘園制社会の中から生まれてきたために,上から,外的契機に強く作用されながら登場してきたといってよいのであり,それはまた家の内在的倫理の弱いところに,家長が外との関係を軸にして家の論理を主導するという上述の特色を規定する要因ともなった。
執筆者:義江 彰夫
近世
中世までの家は一門・一流・家門などと呼ばれる広い範囲の血族団体を指していたが,近世になるとそれらは分解して,通常は世帯を一つにする血族団体を指すようになった。すなわち当主とその配偶者と直系血族である。もし傍系の者が同居する場合にはこれを厄介と称した。
近世では武士の主従関係は封禄の給付によって結ばれたものであるから,戦乱期のように一家・一門を率いて軍陣に臨むことはなくなり,その封禄に応じた軍役または公役をもって奉公すればよいことになったのである。したがって個々に独立した家計を営むものが一般的に近世の家と称することができるが,法的には親族も重要な意味を持っていた。親族は親類,遠縁,縁者に分けられ,親類は配偶者,直系血族のほか甥,従弟まで含まれる。武士が仕官などの際に提出する親類書にもその範囲までは含まれる。また縁坐法による連帯責任も伯叔父母や甥・姪,ときには従兄弟にまで及ぶ。久離・勘当・義絶などの親族関係断絶の行為はその連帯責任を免れるための法的措置で,家長権が強大であったというだけではない。
武家の家は大名などになるときわめて複雑であった。参勤交代制のために,大名がその正妻や嫡子と住むのは江戸在府の間だけで,そこにも侍妾やその生んだ子がいた。また在国中はそこに侍妾がいるのが普通であった。侍妾も奉公人の身分であって,その生子があれば,その子の待遇に応じてその生母の待遇も異なった。侍妾の出が公家などであれば初めから御部屋様といわれるが,通常は男子などを生んだ場合に限ってそう呼ばれる。幕府には男子のときには出生届に相当する丈夫届を提出するが,ときには10歳以上になってからのときもある。その場合も実際の年齢よりは2,3歳上の年齢として届ける。遺跡相続のときに幼少という理由で減封されたり移封されたりするからである。届出した年齢は官年といい,幕府の公式記録にはこの年齢が記されている。大名には多くの侍妾がいたので,その生活は複雑である。相続は男子に限られ,その家督を相続する者がいないときには一家がつぶれ,多数の家臣やその家族が職を失うことになったので,侍妾のいることは道徳的にも非難されることではなかった。大名の嫡子は元服が過ぎると,藩の経費のうちから合力米などの名目で別途会計となる。大名や高級の旗本では,その相続者に〈母は某氏〉とした者が多く,正妻の所出でない者が少なくないことを示している。またその隠居や子女の衣服料等は別会計とされる。一般武士の家の構成は庶民に近くなるが,封禄の多い者は侍妾も置くことができた。大名では近世初期には,次男,三男が幕府から新しい封禄を与えられて分家する者もまれではなかったが,しだいに減少し,後には分家によって独立することはほとんどなくなり,嫡子のほかは養子になって他家を相続する者が増加する。養子は同姓のうちでなるべく近親から選ぶのが原則であったが,後期になると他姓から選ぶことも普通になった。ことに一般の武士のなかには,庶民の子弟を相続者とすることもあり,形式上では他の武士の養子として迎えるなどの方法をとった。
庶民の家は,近世の初期においては傍系の血族が同居している場合,あるいは下人などが同一屋敷内に居住していることもあったが,しだいに単婚小家族が一般的になる。農民の場合には家が農業経営の単位になり,大部分は1ha未満の耕地を持ち,農業・養蚕・手間稼ぎなどの諸業に従事していた。水利・入会場等のことから家は村落共同体のなかに組み込まれ,年貢・諸役は村単位の共同責任となり,検察等では五人組が連帯責任を負うことになった。また本家・分家の関係は,一族の氏神の祭祀や墓地の清掃整備を共通することなどによって,血縁関係の濃薄にかかわらず継続した。それは同姓とか一マキなどと呼ばれて,婚姻による縁戚関係とは別なものであった。田畑の細分の制限令などにより農民の分家はしだいに減少するが,新田開発等によって新しい家の増加は継続していた。相続は長男の相続が一般となったが,末子相続を慣行としていた地方もあり,女子が一時的にしても家主の地位を占めることもあって,武士とは異なっていた。また傍系血族が多く同居して,大家族などと呼ばれる状態を示した地方もあるが,多くは耕地の狭小や交通の隔絶地で分家が不可能になった所である。
町方に住む商工業者も多くは単婚小家族であったが,大商人などには手代・丁稚などが多数いて,手代が別家することも多かったが,その別家は主家に対して主従関係に近い状態を保っていた。庶民の中にも,その家の存続のために家訓を定めたり,分家の制限をしたこともある。
近世の家では親権が強く,子に対して勘当することや,貧困によって妻や子女を年季売りすることも認められていた。男女間では,男性が三行半(みくだりはん)の離縁状で妻を離別することもできたが,この離縁状はまた,再婚許可状でもあった。
→家筋 →家格
執筆者:児玉 幸多
中国
古代~近世
宀(たてもの)と豕(ぶた)とからなる〈家〉の語源には,古来議論が多い。甲骨文の用例では,豚ないし犬の犠牲で清めた建物の中でも一番に神聖な場所,廟室をさした。しかし周の封建制下の〈家〉は,諸侯の〈国〉に対してその家老である卿・大夫あるいはその采邑をいい,〈修身斉家治国平天下〉(《大学》)の〈家〉も本来はこの意味である。春秋時代に氏族制が解体し,父母在世中はその子たち兄弟の同居共財を原則とする生活の場としての〈家〉が成立した。漢になると庶民は家人とも別称されたが,同じ用法は春秋末期に見いだされる。〈家〉は固有の姓をもち,私的所有の主体であって,男耕女織の性的分業をとおして自活する社会集団であり基礎的な単位とされた。
〈家〉の語は,家屋をさす場合も少なくはないが,そこに住まう人々,およびその人的集団の様態や機能,すなわち家族や家庭に比重をおいて用いられ,すまいとしての家は,宮,宅,屋,舎,また房や室などのことばによって表されることが多い。中国のすまいとしての〈家〉は,華北の窰洞(ヤオトン)式の穴居住宅や福建地方の客家(ハツカ)のあいだで見られる環形住宅などの地域差や貧富,身分(たとえば唐の場合,庶民の家は3間4架以下の規模とされ,官吏も六品官以下は3間5架以下と定められていた)によって規模や形態のちがいが著しい。中国の代表的木造建築たる四合院の様式をふくめてその特徴は,版築または磚で周囲に牆壁をめぐらし,内と外との通交は一つだけ開く大門(ターメン)によること,またそれぞれの部屋は壁などで間仕切りされて独立性が強く,院子(ユアンズ)に向かって戸や窓を開く内庭型の構造をとっていることである。部屋の独立性は構成員各人の家における人格上の独立性をうかがわせる。そして,〈家〉を囲う堅固な牆壁が構成員の生命と財産を守る防衛上の意味を第一とすることはいうまでもないが,と同時に,〈家〉が,外の公的世界と隔絶された私的な空間であることを象徴した。専制帝国といわれる秦や漢でも〈家〉を公的世界とは峻別された私的な場とみなす観念が強く存在しており,そこでは独自の秩序が機能することが容認されていた。〈家〉の中での犯罪を刑法の一般的適用から区別した秦律の〈非公室告〉の規定はその一例であるし,さらに唐律では,夜,理由なしに屋敷内に入った者を主人がその場で殺害しても何らの罪に問われなかった。これは外出が禁じられていた夜間のことではあるが,〈家〉に自力救済が認められていたことの一証とされよう。
私的な領域である〈家〉は,人々が真に人間らしく生きることができる場と考えられていた。家共同体の一員としてそれぞれの名分に応じて自主的に言動することが真に人間らしい生き方と儒教ではされ,〈君臣は義合,父子は天合〉〈父は子のために隠し,子は父のために隠す〉などのことばに見られるように,〈家〉の秩序は政治の秩序に対位・競合するというだけでなく,優先すべきものとすら考えられた。
真に人間らしい生活を保障する〈家〉を維持しその安全を確保するために多くのまつり,まじないやタブーが行われた。家の新築には,まず吉凶を卜して宅地を定め,吉日をえらんで着工した。作業のひとつひとつにまつりやタブーがともない,建物ができ上がると,客を招いて宴会をもよおし,酒とごちそうを屋根から落とす〈落〉の儀式を行った。住まう人々が仲よく快適な生活を送るようにうたう《詩経》斯干篇は,周の天子や諸侯の落成式の祝禱歌とされている。春秋期にも西方へ増築を忌むタブーがあったが,後漢になると陰陽五行説にもとづく風水説が流行し,〈家〉にまつわるタブーは一段と繁雑となった。悪月としてもともと禁忌の多い5月に屋根をふくことは頭が禿になるとされ,星命家が最凶と説く歳破(さいは)の辰の普請,転居は厳しく忌まれたし,竣工すると土偶にかたどった土神に酒をそなえて祈る解土のまじないを行い,また,五行の気の盛衰に応じてすまいを変える避衰・避災の習も盛んであった。こうした俗信は,後漢の王充,魏の嵆康(けいこう),宋の司馬光や朱熹らから重ねて批判をうけたにもかかわらず,道教信仰と結びついて大きな影響を与えた。本来は〈家〉の中軸線上に置かれる大門を南東隅や北西隅に寄せた明・清時代の華北の住宅建築は,そのあらわれである。宋・元のころには,家長が香,母が鏡,長男が穀物,長女が織物と蚕のたねを手にして入居し,院子で祝宴をはって〈家〉の神々をまつり福運をもとめる入居の習俗があった。
〈家〉の火災,〈家〉に住まう人々の病魔,短命,貧困はぜひとも避けねばならなかった。〈天井〉も水をつかさどる井宿(ちちりぼし)にちなんだ命名ともいわれるが,さらに天井には水草紋様をかき,漢代から屋根に鴟尾(しび)を飾って火災よけのまじないとすることがはじまった。また,〈家〉の定まった場所ごとに神々がまつられた。たとえば門は,人々だけでなく禍福も訪れて家運を左右するところと考えられ,悪鬼をとらえて食う神荼(しんと)・鬱塁(うつりつ)の2神(のちには唐の太宗を病魔から守った秦瓊(しんけい)・胡敬叔の2将軍も加わる)をまつり,元旦には辟邪招福の呪術的装飾をほどこした。また,かまどは家神の中でも最も重要な位置をしめ,かまどの火は一年中燃やし続け,冬至に火を鑽(き)って新しくした。分家の際にも火分けの儀式があったらしい。元来は火神ないしは炊爨(すいさん)をはじめた〈老母〉をまつるものであったが,家族員の寿命を左右したり財福を招いたりする神とされて,12月に豚と酒を供えてまつった。同じ12月には宅地の四隅に円い大石を埋めて宅神を鎮め病魔を払って〈家〉とそこに住まう人々の平安を祈った。
しかし〈家〉の維持は容易でなく,とくに兄弟均分相続制は典売(質入れ)や分割の因となった。立派な〈家〉をたてても財産争いのたねとなるだけだとの認識があり,学問,徳行,職務への専念や同族,隣人への救済こそが〈家〉の人々の繁栄をもたらすと考えられ,そのために借家住まいや家財何ひとつない〈壁立〉の〈家〉で一生を過ごした清廉の官僚も少なくなかった。
均分による〈家〉の分割,子孫の貧困化を防ぐために非分割の資産を別に用意することは早くから行われた。さらに徹底して,分家せず,何代にもわたって同居共財の共同生活を継続する累世同居の〈家〉も,前漢末以来,歴代みられた。宋の方綱の〈家〉は,8世代700人の家族が600の部屋に住み,毎朝,太鼓を合図に全員が集まり,朝食をいっしょにした。共食は一家の秩序を確認し,親密感情をたかめる上で重要な意味をもった。9世同居の唐の張公芸が告白するように,大家族の〈家〉を維持するためには,ひとりひとりに忍耐が不可欠であった。累世同居の〈家〉,また〈家〉と〈家〉とが緊密に関係し合うなかで人々が体得することになった,利己心,私的欲望を抑制して対人関係を円滑ならしめたり,多くの人々を統率したりする人間的資質は,現代の中国の人々の民族的能力や性格の形成に少なからぬ契機となったと考えられる。
執筆者:安田 二郎
近代
19世紀なかばを過ぎると,列強の中国侵食の激化にともなって,伝統的な〈家〉の崩壊過程がはじまった。崩壊の大きな原因は,〈家〉の存在を支えてきた大地主制を柱とするおくれた経済体制が,列強資本の進出によってしだいにその基盤を掘りくずされていったことである。
だが同様に,〈家〉の内部にも,それを内部から崩壊させる力が育っていた。19世紀末から20世紀初頭にかけて怒濤のように流入してきた欧米近代思想の洗礼をうけた若き知識人たちがそれである。中国再生の道を求めてさまざまな近代思想を吸収するなかで,青年たちの内部にはぐくまれたのは,ひとことでいえば〈人間としての覚醒〉であったが,そのことは同時に,人間性を抑圧する精神的桎梏としての儒教的封建礼教の存在を浮かびあがらせた。そして,〈家〉こそは,まさにその封建礼教の具体的存在そのものにほかならなかった。
かくして,近代中国の若き知識人たちは,〈家〉にあらがうなかでさまざまなかたちの自己形成をとげていくことになるが,彼らの苦悩する姿は,巴金の長編小説《家》(1931)をはじめ,現代文学の主要なテーマの一つとなった。問題が女性の場合,ことはいっそう尖鋭にあらわれた。毛沢東は,中国の人民を縛っている4本の縄として〈政権,族権,神権,夫権〉を指摘した(〈湖南農民運動の視察報告〉)が,〈夫の権力〉をふくむ〈家〉の抑圧のもとで目覚めた女性たちの反抗は,しばしば悲惨な結末をみた。
このような〈家〉の桎梏から個人を解放する闘いによって生まれたエネルギーは,中国においては,解放区を中心とする武装革命闘争の側へと不断に吸いあげられていった。このことは,中国社会における封建的〈家〉の存在を,総体として崩壊させるには有利な条件であった。けれども,他方からいえば,真に強力な〈個人〉が育つ市民社会の形成という条件を欠くことになり,問題を後にもちこすことになったように思える。
1949年の人民共和国の成立とそれにつづく社会主義的改造によって,中国大陸からは地主制が一掃され,大家族制的な従来の〈家〉はひとまず姿を消した。しかし,革命幹部の一部には,かつての〈家〉の人的つながりをそのまま残しているものがいるし,〈家〉のイデオロギーである家父長的支配関係は,中国共産党をはじめ,新中国の社会組織のすみずみにぴったりはりついている。そういう意味で,制度としての〈家〉の崩壊は,かならずしも〈家〉的な人間関係の消滅を意味するものではない。80年代に入っていわゆる〈四つの現代化〉が叫ばれるようになると,都会では,鍵っ子や核家族現象が目だつようになった。これもまた〈家〉の崩壊の一つのあらわれにちがいない。ただ,こうした個々の現象のみで,中国社会にいまなお色濃く残存する家父長的支配関係に端的にあらわれる〈家〉的なものをつき崩す力になりえないことは明らかで,この問題のこれからの行方はいまなおはかりがたい。
→家族法 →宗族 →宗法
執筆者:吉田 富夫
朝鮮
日本語の〈いえ〉に最もよく対応し,頻繁に用いられるのは固有語の〈チプchip〉である。これは家屋・空間としての住居,およびそこに居住する社会集団としての世帯をさし,さらには世帯をこえて広がる血縁集団をさして用いられることもある。しかも日本と同じ家という漢字語も用いられているため,日本の〈いえ〉とよく似た概念であるかの印象を与えるが,実態はかなり異なる。父系血縁関係を基盤とし,祖先・子孫関係や一族の血縁関係が最も基本的な関係として優先される伝統的な朝鮮社会では,〈チプ〉も血縁関係の中の一時的な一部分として位置づけられるにすぎない。〈チプ〉は血縁関係の連続を維持する機構としては重視されても,日本のかつての〈いえ〉の場合のように独立した永続的な社会単位とはみなされない。個人は〈チプ〉にではなく,血縁関係の中に位置づけられる。これを証明するものが父系血縁による一種の家系図である族譜である。世帯(チプ)の生活は,つねにその基盤にはりめぐらされた血縁関係によって保障されると同時に干渉をうけがちでもある。世帯の独立・自助を図るよりも血縁・親族に依存して生活することがむしろ人間的かつ自然なこととみなされ,世帯の生活を優先してこれを拒絶することは,反社会的・非人間的であると非難されることになりかねない。
相続において最も重視されるのは祖先祭祀であり,そのための祭田(位土)が準備されたりもする。養子も祖先の奉祀の責任者として族譜上の血縁の連続性を確保することに主眼がおかれ,財産はこれに付随するものとみなされる。血縁関係によって始祖からの世代数を数える習慣はあっても,経営体として商家などの代数を数えることは特に行わない。商店の老舗や伝統工芸の技術,芸道を継承する家柄がきわめて貧弱なのも,単に商業,芸道などが蔑視されてきたためばかりとはいえない。父親の経験や職業を子に継ぐという伝統が弱く,経営体としての家の連続性・独立性が弱い背景となっている。
〈チプ〉を識別・同定するには血縁関係を基準として行い,日本における屋号・家紋などに相当するものは見当たらない。しいていえば,両班(ヤンバン)の名門の宗家に対してその斎室名を用いる場合があり,こうした宗家では祖先伝来の土地,山林,家屋,屋敷が保持され,先祖の土地との結びつきがきわめて強い。このような〈チプ〉のあり方は李朝時代の儒教,とりわけ朱子の《文公家礼》の励行などによって強化され,李朝初期の子女均分的な相続制度から後期の17~18世紀には強固な長子相続制に転換することでもたらされた。
以上のような伝統は,概して保守的な農村社会やとりわけ両班の生活に濃厚なものであったが,急速な都市化・産業化が進むにつれて今日では大きく変貌しつつあり,〈世帯〉の独立性は強まる傾向にある。
執筆者:伊藤 亜人
ヨーロッパ
日本でいう〈いえ〉にもっとも近い内容をもつ,あるいは日本の〈いえ〉に対応するヨーロッパの言葉は英語のハウスhouse,ドイツ語の同じくHausであり,またフランス語のメゾンmaisonである。《日本国語大辞典》によれば,〈いえ〉には家屋,自宅,家族(家人,家庭,一家),妻,先祖から代々伝えてきた家族団体,また,それにまつわるもの(家名,家督,流儀,芸風,家柄,門地),家長の略,その他の意味がある,となっている。
イギリス,ドイツのハウスや,フランスのメゾンは,より多くの比重を家屋そのものにかけてはいるが,たとえばイギリスのハウスには,家(家屋,人家),建物・旅館・売春宿,(家畜・鳥)小屋,(大学の)学寮,劇場・演芸場,家庭・家族,家・家系・血統・家柄・一族(特に王家),その他(国会議事堂,議員定足数,商社・商会,宗教団体・教団・修道院,株式取引所など)の意味がある。ドイツ語のハウス,フランス語のメゾンもほぼ同じ意味内容であり,イギリス人独特のものが除かれる代りに,家屋敷・家産,家政・所帯,奉公人,王家,名家,王家の親衛隊(近衛兵)などの意味が付け加わる。
ヨーロッパの家,house,Haus,maisonは,したがって家族familyとか,同一の先祖から発する子孫のつながり,結び合いを意味する系族lineageとは異なり,家屋・建造物と,これに生活上あるいは職業上結びつく,血縁・非血縁の人間集団を指し示す言葉である。日本語の家との関係についていえば,家屋・建築物の意味がより大きな比重を占め,また一家眷属,家柄,血統といった意味では,王侯貴族の場合に使われることが多いといった,ニュアンスの違いがある。しかしながら日本の家に尺度の基準を置いて,ヨーロッパの家屋とこれに生活上結びつく血縁集団一般に焦点を合わせ,その社会的な機能と様態を日本との対比において考えれば,以下の特徴が挙げられよう。
日本とのもっとも大きな相違は,第1に,家屋を中心とする私的空間と,村や町などの教会堂・広場・市庁舎などを中心とする公的空間との峻別である。日本の家屋のように縁先とか軒下によって,うちとそと,私と公があいまいににじみ合うことはなく,家屋とそれにもとづく血縁的生活共同体,すなわちヨーロッパの家は,《3匹の子豚と狼》の民話にも明らかなように,外界に対してつねに防衛的,拒絶的,緊張的であり,いわば〈社会内社会〉〈国家内国家〉の様態を呈している。家人の許可なく不法に家屋敷内に侵入した者は,射殺されても犬にかみ殺されても文句がいえない。地つづきのヨーロッパの場合,国家・社会が歴史的に安定性と信頼性を十分に保持できず,身体・生命・財産の安全性は何よりもまず自力で守り(自力救済),ついで生活の場である家屋において家族で守る,という心的態度が伝統的に形づくられてきたからである。今日では存在が疑問視されている古代ゲルマン社会の政治・軍事・経済の単位,ジッペSippe(氏族)の主張も,家(ハウスHaus)こそ国家法Staatsrechtの及びえない理念としての民衆法Volksrechtの場,国家権力に対抗する市民的自由の砦とした,19世紀ドイツ知識人の要請にもとづくものであった。イタリアのマフィアも,独自の法が支配する国家内国家であり,国家秩序の不安定性による,血縁原理にもとづいた集団であり,マフィアの長は〈マンマ(お母さん)〉と呼ばれている。
村,地方,国家のような土を媒介にした人間集団の単位である〈土集団〉と家族・系族といった血縁集団,家とは相補的かつ相反的な関係にあり,歴史上,〈土集団〉が政治的・社会的安定性を欠き,自信を喪失すれば血縁集団,家の結び合いが重視され,強化された。血縁集団,家の意識が王侯貴族や上層市民に強く,農民において比較的に薄いのは、歴史を通じて見られた国家秩序の不安定性と,農村共同体の強固な安定性を如実に示している。
ヨーロッパにおける家の第2の特性は,文字通り血の重視であり,血と家産とが分かち難く結びついている点である。すなわち生きる上での砦である家屋敷を,血縁集団で守り伝えていこうとする気持は,きわめて強烈かつ切実である。自分の次に信頼しうるのは血のつながりであり,フランスでは一家眷属が毎週末に集まっていっしょに食事をし,会話を楽しみ,相互の結び合い,助け合いをはかっている。〈兄弟は他人の始まり〉とし,兄弟が顔を合わせるのはせいぜい年1度の法事のときだけ,という日本とは大きな違いである。実子がない場合,家屋・土地財産はおいであれ,いとこの子であれ,少しでも血のつながった者に相続させようとするのであり,それ以外の方法を知らない。
日本の場合は,むしろ〈遠くの親戚より近くの他人〉とばかり,まったくの他人を養子として,家名,土地財産,家の祭祀を受け継がせるが,古代ローマを別とすれば,ヨーロッパにこのような意味の養子は,たえて存在しない。それは〈神と自然の法に反する〉からであり,互いに血がつながっているからこそ,家族,系族,家という言葉とその意味がある。19世紀以降,欧米諸国に見られるアドプションadoptionは〈養子〉と訳されるが,その中味は戦災孤児とか,棄児を家庭に引き取って暖かく育てようということであり,もっぱら子の福祉のためにあって,家を継がせるとか,実子の有無とは無関係のものである。
この点日本の家は,一般の思い込みとは裏腹に,おそろしく血縁性の原理が希薄であり,血の意識が弱い。だからこそ家の概念は,企業や国家にまで,つまり契約原理にもとづく利益集団や〈土集団〉の代表にまで広まってしまう。〈いえ〉と〈むら〉の概念は,具体的な社会諸集団の構成要素として互いに溶け合い,漠としてその内容が定かでなく,ヨーロッパの血縁原理と地縁原理のような対立・峻別の関係は見られない。そこにまた日本近代化の秘密を求めるF.L.K.シューのような考え方が生まれるゆえんもある。すなわちシューは,家長が弟子のなかからもっとも優秀な者を選抜してこれと養子縁組を結び,家名を継がせ,家をいよいよ発展させていくように,日本の企業は血縁kinshipの原理と契約contractの原理の長所を,企業一家意識の下にうまく結び合わせ,kintract(縁約)の原理によって成功した,とするのである。
血のつながりを重視し,血の信仰によって支えられているヨーロッパの家には,これまた古代ローマを別とすれば,日本の家に見られる祖先崇拝は存在しない。日本の家の場合は,血縁意識・血縁原理の希薄さ,あるいは擬制としての血と家の意識が,家の統合・統制のために〈家神〉を必要としたといえよう。さらに日本の場合,ヨーロッパのように,強い共同体規制を備えた村それ自体が,事実上農業の経営主体となっていたということはなく,農業の経営主体はあくまでも家であった。したがって日本では,鎮守様のような村をまとめる〈土神〉のほかに,家をまとめる〈家神〉を必要としたのに対し,ヨーロッパ社会では村や町のカトリック教会の聖堂に表現される,〈土神〉を持つだけで足りたという事情もある。
〈家神〉を必要としないほど,事実上の強い血の結び合い,助け合いの意識と信仰に生きるヨーロッパ人にとっての家は,したがって家的な人間関係,フィクションとしての家に生きる日本人の場合よりは,より素朴,素直,かつ具体的である。それは家屋を中心としてともに助け合って生きる,〈血のつながった親しい仲間〉のことであり,フランスの古い表現でいえばアミ・シャルネamis charnels,つまり〈骨肉の友〉となる。フランスの王家が中世最初のカペー家からバロア家,ついでブルボン家と移ったように,土地財産が傍系に受け継がれるたびに家名は絶えてしまうが,しかし家の財産はあくまでも一家眷属が防衛し,後世に伝達してゆくべきものであった。フランス革命までは誰かが土地財産を処分して第三者に売却しても,系族に中でこれに反対する者がいれば,その者は売却された土地財産の買戻しができた。この〈系族による買戻しretrait lignager〉ほど根強くフランス社会に維持された制度はなかったと,20世紀最大のフランスの歴史家マルク・ブロックは述べている。
ヨーロッパの家はしかしながら,長いあいだ生活と同時に教育の場であった。すなわち子どもは7歳になると,他家へいわば里子に出された。中世から17~18世紀にかけてがそうであり,この点では王侯貴族の場合も手工業者・商人の場合も同じであった。親戚の家に預けられる場合も,まったくの他家へ預けられる場合もあり,ヨーロッパ人はしたがって,原則として生みの親と育ての親を持ち,家は生活の場であると同時に教育の場でもあった。自分の家で育てていたのでは子どもにわがままが出て,おとなになるための訓練,修業が徹底しないからである。そしてこれこそが近・現代ヨーロッパで盛んな寄宿制教育の歴史的背景であり,イギリスのハロー,イートン,ラグビーなどのパブリック・スクールやオックスフォード,ケンブリッジ大学のカレッジ(学寮)におけるチューター・システム,つまり全寮制による個人指導教授のしくみに,その伝統はもっともよく受け継がれている。
なお,ヨーロッパの家屋には17~18世紀以降,個室・私寝室がはじめて出現する。それまでは王侯貴族や上層市民の城館や邸宅にも,個室・私寝室は原則として存在しなかった。そしてこのような家屋構造の変化が,一方で個室をサロンとか政治の場にしていくとともに,他方では近代市民社会の形成と相まって,個人の家からの解放,個人第1,家第2の意識を生み,かつ育てていった。そして20世紀後半の低成長時代では,価値観がさらに転換して,互いの違いを認めつつも助け合い,手を取り合って生きようとするコンビビアリテconvivialité(親和共生関係)が重視されるようになった。それとともに家は,日本,ヨーロッパ,アメリカを通じ,血の結び合いによる情感の場として,個人が生きる上での最重要の位置を,ふたたび取り戻しつつある。
→アジール →家族世襲財産 →家父長制 →貴族
執筆者:木村 尚三郎
インド
古代インドでは〈いえ〉を表すことばにはグリハgṛha,クラkula,クトゥンバkuṭumbaの3語があり,同義語として相互に置き換えられる場合が多いが,それぞれ家屋,家族,家産に重点をおいた用例が見られる。(1)グリハは家屋を意味する。そこから同じ家屋内に住む家族をさし,そこには同居の隷属民と奴隷を含む場合もある。家での祭式は非常に重要であって,前4世紀ごろまでに《グリヒヤ・スートラGṛhya-sūtra(家庭経)》がバラモンの間でつくられ,結婚式や葬式を含む家での祭式が詳しく規定された。家長はグリハメーダgṛhamedha,グリハパティgṛhapatiなどとよばれ,仏教経典と碑文ではグリハパティは富裕な商人や農民を意味し,〈居士〉と漢訳された。(2)クラは本来集団を意味する語で,ふつう家族をさし,血縁を重点におくところから,やや広い範囲の親族をさす例が多い。サクルヤsakulya(親族)はこれから生まれた語である。また家の慣習(ダルマ)という場合には,つねにクラが用いられる。(3)クトゥンバは前2者と比べてサンスクリット文献に遅れて現れ,ドラビダ語に由来する語と思われる。それは家族を表すが,家のための債務という場合,つねにこの語が用いられるように,家族財産を背後に含む用例が多い。家長を意味するクトゥンビンkuṭumbinはグプタ時代以後には農民をさすようになった。ヒンディー語ではパリバールparivārが家族を表すふつうのことばであるが,それはサンスクリットでは従者,使用人を意味し,家族の用例はない。
インドの家族は父系制で,家長である父の権限は絶大であった。母系制はドラビダ語族の先住民の間でかなり広まっていたと考えられており,最近までケーララのナヤール・カーストなどでは,母系制家族(タルワド)が維持されていた。そこでは,家は母から娘へと継承され,男は結婚しても生家にとどまり,家長として家の責任をもった。父系制家族では婦女の地位は低く,日本の婦女三従の教訓と同様な規定が《マヌ法典》に見られ,妻も娘も家族の財産については権利をもたず,財産の相続権もなかった。息子がいない場合,妻や娘も相続できることがあったにすぎない。だが婦女は結婚のときなどに贈与された財産を特有産として所有した。これはストリーダナstrīdhanaとよばれ,娘が相続するのが原則であった。
結婚は宗教的意義が賦与され,息子が祭式を継承して,父祖の宗教的な負い目を償うと考えられたため,息子の出生が強く望まれ,息子がないことは,この上ない不幸とされた。また初潮までに娘の夫を決めることが親の義務とされて,早婚が一般的であり,幼児婚も広くおこなわれた。同じカーストで,異なった氏族でなければならないなど,配偶者の決定にはさまざまな制約があり,婚礼の前には,上級のカーストの場合,多額のダウリ(嫁資。持参金)を払わねばならなかった。結婚式のあとでは結婚は解消できない。夫は他の女性と結婚でき,妻の数に制限がないが,妻は離婚ができないばかりでなく,夫の死後にも再婚が許されない。これがバラモンの理念であって,上級カーストではこれが遵守されたが,下級カーストでは離婚も再婚もおこなわれ,ダウリの慣習もなかった。この婦女の地位の低さから,サティー(〈貞淑な妻〉の意)とよばれる妻の殉死が,上層・中層カーストの間でおこなわれ,それは夫の遺体と一緒に生きながら妻も火葬されるもので,インドの村々にはサティーの記念像柱が多数残っている。
執筆者:山崎 利男
中東・イスラム社会
家族を表すアラビア語は一般にはアーイラ`ā'ilaである。現代では,核家族をウスラusra,拡大家族をアーイラと使い分ける場合が多いが,伝統的にはこのような区別はなかった。
家族法の分野はイスラム法の中心部分の一つであるが,婚姻・離婚・相続に法の関心は集中し,結婚した男女とその子女が両親や兄弟・姉妹とどのような家庭をつくるべきかについては,法は何も規定していない。また,父親の財産は,主として息子たちが均等に分割相続するのがイスラム法の原則的規定であり,そのため,家あるいは家族が何代にもわたる経済活動の単位になることはなかった。法に規定されず,社会制度としても共通する経済的な裏付けがなかったため,家族のあり方はその社会的地位,時代,地域によって多様である。しかし,理念としての家族は地域と時代を超えて一貫していた。
多くの場合,個人は何よりもまず父系血縁集団の一員であった。国家や政治的党派などの政治集団,同業者集団(ギルド),宗派別の教団,都市の街区(ハーラ)や農村などの地縁集団,その他さまざまなレベルの集団が社会には存在し,個々の人々は,同時に幾つもの集団の構成員であった。しかし,それらへの帰属意識より特定の父系血縁集団への帰属意識がより根本的なものとしてあった。その父系血縁集団が,広い意味での家族アーイラである。
1人の男とその妻(複数の場合もある),そしてその複数の息子夫婦と孫たちが一つの家屋のもとに一つのかまどを共有するのが,理念的な家族の最小単位となる。父親の死後は,息子夫婦とその子らがそれぞれ自分の家とかまどをもつが,孫の世代が妻を迎え子をつくると,再び3世代が同居することになる。このようにして,2世代3組以上の夫婦が一つのかまどを共有する家族が連続的に存在し続けることになる。父親の死後,複数の息子が別々のかまどをもっても,古い家族が崩壊したとは意識されない。古い家族もアーイラであり,新たな複数の家族もアーイラである。幾世代にもわたり祖先を共通にする集団は,その大小にかかわりなく,すべてアーイラであり,またアーイラは,どこまでも重層的に存在していることになる。一般に,比較的小さな血縁集団をアーイラといい,大きな血縁集団をカビーラqabīla(氏族,部族)というが,どこまでがアーイラで,どこからがカビーラかの区別は,判然としない。アーイラとカビーラは連続していて,カビーラも家族の延長なのである。
イスラム勃興期のアラブ社会に関する歴史史料では,家族から部族までの血縁集団は,すべて特定の祖先の名を採って〈某の子孫(バヌー)〉と呼ばれている。預言者ムハンマドの場合,彼は3代前の祖の名を採ったバヌー・ハーシム(ハーシム家)の一員であり,そのバヌー・ハーシムは,ハーシムの8代前の祖,ムハンマドから数えて11代前の祖であるクライシュの名を採ったバヌー・クライシュ(クライシュ族)の一部である。このバヌー何某という集団の構成員は,原理的には,その某の男系の子孫と彼らの妻・娘だけである。しかし,バヌー何某と呼ばれる現実の集団には,少なからぬ非血縁者が含まれるのが普通であった。非血縁者の一つのタイプはハリーフḥalīfと呼ばれた人々で,当該集団の正規の構成員と対等な立場にあり,同盟者と訳される。彼らは,しばしば正規の構成員の娘婿であったり,娘の子であったりした。ほかに解放奴隷であるマワーリーや奴隷もいた。
政治的に卓越した立場にある家・家族を,コーランでは〈某のアフルahl〉とか〈某のアールāl〉と表現する。この用法はイスラム以後の歴史にもみられる。この場合のアフルやアールの構成員も血縁者とは限らなかった。アッバース朝の中ごろまでは,非血縁者の多くはマワーリーと呼ばれた。〈某のアール〉はさらに転じて王朝を意味し,アール・ウスマーンāl `Uthmānはオスマン朝を指した。
人が居住する建物やテントを意味するバイトに定冠詞al-をつけることによって,特定の権勢者を意味させ,その家族をアフル・アルバイトahl al-baytと呼ぶこともあった。たとえば,ウマイヤ朝期には,アルバイトは,多くウマイヤ家を指した。また,アフル・アルバイトはとくに〈ムハンマド家〉の意味に用いられることがあり,この意味でのアフル・アルバイトの範囲は,スンナ派の各法学派やシーア派の間に見解の差があって一致しない。
オスマン帝国統治下のエジプトのマムルークの社会では,バイトはマムルークの領袖の家を意味し,その名を採ったバイト何某という表現は,その領袖のもとに集まったマムルークの集団を意味した。そしてこの集団には擬制の血縁に基づく家族意識があった。
現代の中東社会の家族も父系血縁意識に基づく集団である。現実の家族形態では,結婚した息子のすべてが父親と同居することは例外的にしかない。しかし,重層的家族意識は現代でも広く認められる。
執筆者:後藤 晃
ラテン・アメリカ
アルゼンチンなど白人が人口のほとんどを占める地域を除けば,ラテン・アメリカは,インディオの人口密度が高く,その伝統的文化の強い中米からアンデスにまたがる高原地帯と,熱帯作物の単一栽培と黒人奴隷の子孫の存在に特徴をもつカリブ海全域からブラジルにかけてのプランテーション地帯に大別されうる。長い植民期を通じて両地域は,アシエンダ,ファゼンダなどと呼ばれる大土地所有制に基づいた農業経営単位を巡って構造化が進み,それぞれが社会のおもな構成単位をなしていた。独立自営の小農層による村落共同体の形成はきわめて弱く,社会はアシエンダやプランテーションの累積であったといえる。そしてこれらがそれぞれファミリアfamiliaであると了解する傾きがあった。
ファミリアという語は状況次第でさまざまの意に用いられる。いくつかの家族の集合体としての親族集団であったり,境界もなく広がる親族ネットワークであったり,家族・世帯,あるいはアシエンダやプランテーションにおける人間関係の総体を意味したりする。いずれの場合においても,奴隷,召使,労働者を含める。ファミリアの概念には出自,財産,相続の問題が本来的に内在しており,同一の姓,先祖,財産,事業を受け継ぐ者たちの集まりとして了解され,奴隷や召使はその中に本来的に含まれるものであった。
アシエンダは,大土地所有に基づく農業経営体だが,小資本による小規模市場向けの生産を特徴とし,特に上述の高原地帯に一般的である。これは主としてインディオが労働力を提供しているが,そのアシエンダへの組み込まれ方には種々あって,完全に内部に居住して労働するペオンから週に幾日かを農場主のために働きに出る農奴的なものまである。その組み込まれ方の度合によって,アシエンダがひとつのファミリアであるという考え方には強弱がある。農場主と,それにつらなる農民・労働者との間には,支配従属関係とともに,これを強化するものとして一種の擬制親族的なコンパドレの関係が結ばれていて,両者間には家父長制的な庇護・奉仕の関係があった(コンパドラスゴ)。
一方プランテーションは,大資本による大規模な国際市場向けの単一作物(サトウ,コーヒー等)の生産をするものとして区別できる。この形態ではおもに黒人奴隷や外国移民,クーリーなどが労働力として使用され,カリブ海やブラジルなどで支配的であった。ブラジルではこれをファゼンダとかエンジェーニョと呼び,家父長制的ファミリアと解されていた。農場の中央に大邸宅があり,農場主とその家族,家内奴隷や召使が住む。農地内にはセンザーラと呼ぶ奴隷小屋が並ぶ。農場内には礼拝堂があり,ここでは奴隷も農場主と共に祭儀に参加し,聖職者は概して農場主の近親者であった。農場主と奴隷の中間にムラートなど混血の自由人,元奴隷などがいて,奴隷を統制する役割を担っていた。独立自営農の発達はおもに20世紀の現象で,それ以前にはアグレガードとかラブラドールと呼ばれる農場主への依存性の高い農民がプランテーション領地内に居住していて,農業を営みながら農場への多様な役割を果たしていた。以上のさまざまな人々はみな農場主と庇護奉仕,支配従属の関係で強く結ばれていて,これにはやはりコンパドレ制が大きな役割を果たしていた。そして全体が,農場主をパーテル(家父長)としたひとつのファミリアであると了解されていた。パーテル像は父像である以上に権力者,所有者,首長のイメージをもっていた。19世紀までは各プランテーション,各ファミリアはフォーゴ(火の意)とも呼ばれ,経営単位であり,課税の単位でもあった。火は聖火であり,家の中心であり,現代ブラジルでは家庭,世帯の意である。〈消えた火fogo morto〉は操業中絶のプランテーションを指す。このようにファミリアは家父長の下に統括された血縁・非血縁の成員による経営体・共同体の意が強く,現代の企業でも同族的経営,終身雇用制の特徴もあり,ファミリア意識は強い。
都市においてもファミリアは姿を変えながら強く持続する。上流階級では邸宅内に召使などが住み,同一ブロック内に親族が多数居住することも多い。住居が離ればなれでも,親族や非親族追従者との関係は密接かつ多元的で,ファミリア的紐帯は他のどのような人間関係にも優先する。だが,ファミリアは協同的集団であるよりはネットワーク的形態への方向をたどる。労働者階級や農村からの移住者間では,都市の体制,生活様式への適応の必要から,相互扶助,情報を求めてファミリア的・コンパドレ的紐帯が積極的に作られ,再建される。ことに政府機関・公共施設などの社会制度が貧困層の手の届かない形である場合が多く,いわゆる〈貧困の文化〉が育つ。すなわち,期待と現実のへだたりに基づく挫折感が強く,社会参加も顕著ではないが,他方では私的な,インフォーマルなレベルでの協力関係が発達し,ファミリア的・拡大家族的協力が強く,独立自営への転換に際しては経営体として析出したりする。
→家族
執筆者:前山 隆