道は個別に暮らす人と人,人とその作業の場所,また人の集中する幾つかの集落や町の間を,一定の線で結びつけるものである。道は人の歴史とともにあって,その時代や地域の人と人とのかかわりをおのずから示している。本項ではこうした道の歴史を日本,ヨーロッパ,中国について述べる。なお近代以降については〈道路〉の項目で,技術的な問題を含めて記したので参照されたい。また道を広義に考えればシルクロードやキャラバン・ルート(キャラバン)などの広域ルートもあげられよう。
自然の道,人為の道
広場を囲んで住居を定める原始時代にあっては広場が分かれ住む人々を結ぶ道となるし,狩猟・採集が生活の資を得る方法である時代には,その対象の得やすい場所まで到達するための道ができる。狩猟のためには野獣の通う道が利用されることもあるし,豊富な採集物などの得られる場所へは通いなれた踏跡が道となる。日本を例とすれば,石器時代にあっても,石器の原料となる石,例えば中部地方から東北の地方で鏃(やじり)の原料となる黒曜石や,近畿以西の讃岐石(サヌカイト)などは,産出地が限られており,そのような原料石の産地と住む集落との間を運ぶための道が,多くの住居群を結ぶ形でできていたはずである。それらは自然の地形条件に制約されながら,永年の通行によってほぼ定まった場所を通っていたのであろう。このような自然発生的な道は,永い時間の経過した今日でも,いたるところでつくられている。
これに対して人為的につくられる道の多くは,政治支配のための道として発生する。政治支配圏の拡大,支配圏の維持のためには武力集団の移動がみられるが,そのためには自然発生的な道を選び,連ね,各所に宿泊の場所,食糧・武器の貯蔵場所をつくっていく。このような道が平時には行政目的や貢租の運搬に適するように人為的に補正され,諸施設をつくって政治的な道として完成していく。その過程で支配者の居住地が変転すれば,新しい居住地を中心に再編成される。従来道の歴史として研究されてきたのは,このような政治支配のための道であり,その研究は途上に設けられた公の諸施設の位置を確定しつつ通過経路を定める方法で進められている。
日本
歴史的概観
諸国を結ぶ道
藤原京が計画されるに先立って,奈良盆地では東西,南北の方位に従う直線道路がつくられている。これらの道は方位を正確にとらえる方法があり,盆地内の諸河川のはんらん原を通り,渡河の方法を見いだす土木技術の発達したことを示している。それらは盆地の外れにおいて,旧来の自然道を選んで,西は河内を経て難波に至る道,南は紀伊や吉野に至る道,東は伊勢道や東方諸国への道,北は木津川渓谷へ出て,山陰や北陸に至る道の起点となる。
都が長岡京を経て平安京に至るとともに,都と地方をつなぐ政治・行政の道はその位置を変えていく。諸国への道は京師を起点とするが,長岡京時代の東海・東山道,北陸道などは,長岡京の南北の中央をなす綾小路を直線で東に進み,桃山丘陵の南を抜けて山科盆地へ向かったと推定されており,平安京になると京の南の外れ羅城門を出たところの東西の道を起点として,すべての道が決まったと考えられている。京師から地方に至る道は,《延喜式》兵部省の諸国駅伝馬の項は,東海道(常陸国まで),東山道(下野を経て陸奥),北陸道(越後,佐渡まで),山陰道(石見まで),山陽道(長門まで),南海道(紀伊,淡路より四国),西海道(筑前をはじめ九州諸国)の諸道と,沿道諸国の駅名と伝馬数を掲げている。大きな峠路の前後や重要地点には駅馬30疋,小駅には3疋のところもある。これらの諸道は京師と各国の国府を結び,行政命令の伝達や役人の往来,調庸の輸送に用いられる。国の行政実務の中心が,のちのちの幕府の所在地である鎌倉,室町,江戸と移る間に,それら諸道の通過点も変わっていく。しかし古来の道は,東山道が木曾路を選ぶようになる大変化のほかは江戸時代に至るまで大筋において守られている。
古道の検討
東海道筋には,関東に入る際に一つの大きな路線の変更がある。それは足柄峠越えから箱根峠越えへの変更である。1020年(寛仁4)の記事に始まる《更級日記》では足柄山を通っているが,鎌倉開幕後の紀行文では,1223年(貞応2)の《海道記》に足柄山,関下の宿が見えるほか,多くは箱根路を通っている。《延喜式》所載の相模の駅は坂本に始まるが,この駅は現神奈川県南足柄市関本付近に比定されている。この道は江戸時代の矢倉沢街道(大山厚木道の西への延長)にあたる。1888年出版の2万分の1地形図矢倉沢村を見ると,当時の〈従小田原駅至甲府道〉をそれて〈地蔵〉〈倉〉地籍を通る小道がある。この道の西北,県境に近く739.4mのところに足柄峠があり,この道を足柄道と呼んでいる。この道は倉近くから尾根通りを通って,駿河国駿東郡竹之下村に向かっている。図上での感じでは,ここにいにしえの足柄道経路の可能性が考えられる。古代史に現れる足柄道は800年(延暦19)3月,802年の富士山噴火によって一度廃され,筥荷(はこね)途が開かれるが,翌803年5月には旧に復している。この坂本駅以後の東海道は今日相模国府の所在地の推定も加わって,海岸に出るものと考えられている。その東海道から武蔵国府へ至る道として,丹沢山麓に近い相模川周辺から多摩丘陵,多摩川を越えて府中に至る幾つかの経路が検討されている。
今日の歴史地理学の成果によって二,三の地点について述べたが,その検討の手法は次のようなものである。(1)史書,紀行文,文書,記録に現れる道の性状,通過点,国府・郡衙などの探索。(2)国府,郡衙・駅などに関係ある推定地の小字(こあざ)名の検討。(3)駅については先後駅間の距離,駅の規模(主として備馬数)に相応する平たん地の存在と河川などによる被害の可能性の推定。(4)道筋については,山・河の地形的条件による歩行・徒渉の難易。(5)各時代の地図,地形図に示される道路や現在に使われている道路の原形推定や地形的条件による古開発の可能性。(6)推定地の出土物・遺構の発見や,組織的発掘。これらのうち(6)は各地について十分には果たされていない。足柄道を尾根通りの道と考えたのは歩行の容易さであり,関本駅以後の道を酒匂(さかわ)川右岸を海岸まで出て,以後海岸線を通ると推定するのは,旧相模国府の推定所在地との関係のほか,酒匂川渡渉の難易も考慮してのことである。酒匂川は中流部の東流している間は1000分の7以上のこう配であり,南に方向を変えるあたりで,四十八瀬川が合流する。この川は急こう配で,増水時には酒匂川を西に押しつけ本流をはんらんさせる。以下こう配は1000分の4前後になり,江戸時代中期にはこの間は連続堤で固められ,川幅は120~130間から200間に及ぶ。明治20年代には川口は広い〈とろ〉地形の池状をなし,海に口を開いている。その上流部で本流が二つに分かれているが,そこを東海道が通っている。江戸時代には徒渉であった。矢倉沢街道は四十八瀬川の合流点のやや上流で川を渡っているが,そこの渡渉に比べて,川口付近での渡渉のほうが容易と考えられる。
政治中心地と地方を結ぶ道にとって,山々を越え大河を渡ることは難事である。水量の多い川の上流部を谷沿いに通ることも難しい。そんな条件のなかでその地域に住む人たちが,その生活の維持のために踏みならした道を選び,結んで政治の道の原型がつくられたのであろう。王朝時代から貴族の乗物として牛車(ぎつしや)はあっても,それが京師を離れ山地を越えて遠く他国に出ることはない。人と馬の通いうる道であれば,急坂があり屈曲が多くても用はたりる。そのような自然道の中から要地を結び,比較的短距離の道が選ばれていく。
中・近世の道
中世の道の一つは政治の道である。これは鎌倉と京,さらに諸国の御家人の本拠とを結ぶものとなる。後者としては関東各地にみられる鎌倉街道と呼ばれるものを発達させた。もう一つの道は荘園と本所,領家の居住地を結ぶ,年貢を運ぶその時代の経済のための道である。政治の道を多く利用しながら,個々の荘園へと細かく道はつくられる。室町期を経て戦国期に入れば多量の軍兵の行動の道が選び出される。都への進出を図った甲斐の武田氏の三河へ出る道は,古い東山道をも一部使ったかもしれないが,古代の阿知駅に比定される駒場(こまんば)の地から南下して直接三河設楽(したら)郡に出ている。ここは江戸時代に入ると商品輸送の道として,中馬(ちゆうま)の主要通路の一つとなっている。戦国大名の領国内にはその主要中心地に至る道が定められ,要所に関が置かれ,伝馬の制がしかれる。
江戸時代に入ると幕府,諸大名の手で多くの街道が定められ,宿駅の制が定められる。江戸を中心とする五街道,中山道土田(どた)宿(現,岐阜県可児市)に出る尾張藩の木曾街道などのごときである。それらは参勤交代をはじめとする公用のためのものであり,そこに置かれた宿駅,宿馬は公用の余暇に庶民の利用に供される。東海道の平たん,清潔さについてはケンペルの《江戸参府紀行》の記事などがあるが,これは沿道各村に課せられた義務労働によって維持されるものであるが,それとともに牛車(ぎゆうしや),馬車の通行のなかったこともあずかっている。
ただし大津~京都~伏見間には二条城米の輸送義務を果たしたあとは,自由に商人荷物を運ぶことの認められた牛車稼ぎがあった。これは大坂の陣に際して徳川方の兵糧,軍用資材の運搬をしたことで特権を認められたといわれる。牛車通行は道を破壊する。その対策として京三条より山科盆地に出る日岡峠には享保初年に石を敷いた車道ができ,1805年(文化2)には,蹴上(けあげ)~大津札之辻間の大改修を行い,人馬道には切込砂利を入れ,牛車道の車輪当りに花コウ岩を敷いている。箱根峠の早川からの登り坂にも,幕末期から石畳が敷かれている。前者の例は,輸送手段が馬背から牛車に変わることによって道の改良を要するに至った事情を示す。このとき,人馬通行の際よりも道路の屈曲を少なくする改良もあったにちがいない。
江戸時代の公用の道は宿場,宿馬の置かれた街道筋には限られない。幕府,諸藩の代官所と江戸,城地の間には公用の交通,年貢米の輸送を含む輸送のための道の必要があったし,代官所と村々の間にも道の必要はあった。年々の年貢賦課状などの交付,頻繁に出される御触書(おふれがき)の伝達,年貢米・金の納入などのために道は定まっている。これらは激流の河川を避けて峠路を通り,やむをえない場合は桟道をつくって川岸を通っている。それらは人馬が通うにたればよい細道が多い。さらには村民の日常生活のための作場道,入会山などの草場,薪伐場へ通う山道などもある。これらのなかには永年の通行によって定まってくる踏跡道の域を出ないものもある。
近代における変化
道が大きく変わってくるのは,単に生産物が年貢として運ばれるだけでなく,商品として大量に運ばれるようになってのちであり,顕著な変化をみせるのは明治に入ってからである。明治10年代に入って荷馬車,乗用馬車が激増するとともに,各地で県費,郡費による県道,郡道が設けられるようになる。これらは馬車,荷馬車の利用を前提に拡幅され,こう配を緩くされて,各所で迂回する。旧道は人馬の道として近道として残る。小集落のなかには新道からおきざりにされるものも生じる。道は地方経済中心地への輸送を主とするものとなる。さらに車による道の破壊は,礫舗装を生む。それとともに従来徒渉場であった川にも橋梁が設けられ,馬車の通行に耐えるものへと変わっていく。馬車類の普及の過程は同時に乗用人力車,手荷車の普及の時期であり,それは市街地の道路はもちろん農村部の村内道路の拡幅をも進める。
次の変化は自動車の出現・普及であり,とくに昭和に入ってトラック,大型バスが普及するとともに,再び急坂,急な曲がり角を避けるとともに,一般的な土木工法の発展によって,河川沿岸への道路の敷設が進む。今日においては主要都市からしか進入できない自動車専用道路の出現をみるに至っている。
執筆者:古島 敏雄
古代の道の特徴
自然の道の例として,大和のプレ横大路(よこおおじ),山辺の道,葛城(かつらぎ)古道があげられる。プレ横大路は,後でとり上げる横大路のやや北を走っていた道で,三輪山のふもとと二上山のふもとを結ぶ道である。三輪山のふもとには三輪遺跡,二上山のふもとには竹ノ内遺跡があって,ともに縄文前期から平安時代に至る大遺跡である。プレ横大路は,この二つの遺跡を結ぶ自然の踏分け道であったと考えられる。《日本書紀》の崇神天皇10年条に,大坂山の石を手越しに運んで,倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)の箸墓を築いたとの伝承が見えているが,これもプレ横大路を利用して,大坂山(二上山)の安山岩を,箸墓古墳の墳丘上に葺いた事実が,伝承の核となっているかと思われる。山辺の道に沿って,大神(おおみわ)神社や石上(いそのかみ)神宮などの古社が所在し,また葛城古道沿いにも,高鴨神社,長柄神社,一言主神社などの古社があって,ともに古くから開かれた自然の道であると推測できる。
計画的に敷設された人工の道には,方位を意識した道(直線古道)と,方位は無視して,ただ2地点を直線的に結んだにすぎない道(斜交道路)に分類できる。直線古道は現在までのところ,大和と河内においてのみ確認されている。すなわち大和では東西道の横大路,南北道の上ッ道・中ッ道・下ッ道であり,河内では東西道の大津道と丹比道(たじひみち),南北道の難波大道である。これらの諸道は難波大道を除いて,すべて《日本書紀》の壬申の乱の記事中にその名が見えているので,672年(天武1)以前に敷設されたことが確実である。また中ッ道・下ッ道と横大路は,藤原京の設定に際して利用されたことが判明している。以上のことから,大和の南北道である上ッ道・中ッ道・下ッ道と河内の南北道である難波大道は,7世紀中葉ごろに敷設されたものと考えられる。とくに難波大道は発掘調査によりその存在が確認され,さらに,その北への延長線が難波宮の中軸線と一致する事実があるので,孝徳朝の難波宮造営と密接な関係があるものと推測できる。一方,大和の東西道である横大路は,その道沿いに6世紀代の宮が所在する事実があるので,613年(推古21)11月に官道として整備される以前から存在していたものと考えられる。同様に河内の大津道と丹比道は,その間隔が大和の上ッ道・中ッ道・下ッ道のように整数値とならず(3道の間隔は4里),その敷設年代はより古くさかのぼるだろう。6世紀代にはすでに,難波の上町台地には対外交渉のための諸施設が多くあり,また難波津や住吉津の存在を考えれば,河内の東西道も大和の横大路と同様,6世紀代には敷設されていたと推測できる。これらの直線古道が途中にある丘陵や河川をまったく無視して正東西,正南北に敷設されたのに対して,2点間をまっすぐに結んだ道が斜交道路である。大和では,飛鳥と斑鳩を結ぶ太子道(筋交い道)がその代表例で,7世紀前半のものと認められる。こうした古代の斜交道路は近年,全国各地で地図上で検出されており,直線古道が大和と河内のみに限定されるのと大きな違いをなしている。その敷設年代も7世紀前半から8世紀代に及ぶものと考えられる。律令国家体制が確立するにつれて,藤原京や平城京から諸国に至る官道が整備され,駅伝制が整えられていく。646年のいわゆる大化改新の詔に駅馬,伝馬や鈴契が見えているが,大宝令文による潤色であろう。
大和や河内の直線古道は都城と密接な関係を有し,また,郡家(ぐうけ)や駅家(うまや)などの諸施設,古代寺院,式内社などが道沿いに存在している事実が指摘されている。都から諸国に至る官道にも,地形的に可能なかぎり斜交道路の形態をとるものが多かったようである。そして道沿いには同様に,国府をはじめとして郡家,駅家,軍団などの諸施設の存在が想定され,また,道を基準に条里制が施行されている例が多い。
以上のように,古代の道には直線形態をとるものが多く,道幅も広い。道は国司の管理下にあり,文字どおり公道であったが,時代とともにしだいに道の両側から少しずつ私領化が進み,直線形態の道は曲がりくねった道幅の狭いものとなっていった。とくに近世に至り,町と町を結ぶ便利な道が多く敷設されるようになって,古代の道はとぎれ,廃道化する傾向が著しくなったようである。
執筆者:和田 萃
中世の道の性格
〈公界(くがい)の大道〉〈公界の道〉など,戦国時代の用例から見ても明らかなように,道路は〈公界〉であり,私的な支配を拒否する本質をもっている。それゆえ平安時代以来,〈大道〉はしばしば田畠の四至(しいし)を示す境になり,また摂津と播磨の境を〈不善の輩〉が往反したといわれるように,境はそれ自体道となりえたのである。1299年(正安1)市町,浦浜,野山,道路でにわかに起こった闘諍(とうじよう)については,その場にいた者でなければとがをかけられることはないという〈関東御式目〉があったといわれたように(猿投神社所蔵《本朝文粋》巻二紙背文書),道には縁坐の規定は適用されず,そこで起こったことはその場で処理された。また中世の売券の担保文言には,しばしば契約に違反したときは,いかなる権門勢家領・仏神領,市・町・路・辻・海上などにおいてでも,質取りされてもやむをえぬと記されている。これは本来,道や辻をはじめとするこれらの場が,質取行為を禁じられたアジールとしての機能をもっていたからにほかならない。路次狼藉(ろうぜき),路次点定(てんじよう)が強く非難されるのも,基づくところはそこにある。
それゆえ,逆にこうした道,辻,海上などに関を立てて〈道切り〉を行い,往反する旅人や船から〈手向け〉,初穂などの形で関所料を徴収しえたのは,勧進上人や海民,山民など,道を主たる生活の舞台とする人々であった。京都の道路を開発した〈巷所(こうしよ)〉の支配者に,こうした上人が見られるのは偶然ではない。しかしそれが京職にも管理され,京都を中心とする道を検非違使(けびいし)が支配したことからも明らかなように,中世前期の西国では,道に対する支配・管理は統治権を掌握する天皇の手中にあり,東国では幕府が握っていた。関所の設定権,逆にその自由通行を保証する全国的な過所(かしよ)発給権も同様であった。もちろん,実際に道を自由に往来する人々は,蓑笠,鹿衣と鹿杖,編衣,女性の壺装束のような特異な服装をし,道が山・海の神や巷の神にかかわりをもつという観念は,時代がさかのぼればさかのぼるほど,庶民の間では強かったものと思われるが,世俗的な支配権を掌握したのは古代でも天皇であり,室町時代以降になれば室町公方,鎌倉公方,さらに戦国大名から織豊政権と,統治権を握った者が道を支配した。〈道々の者〉といわれた職人など漂泊・遍歴する人々が,天皇や将軍に直属し,仏神に結びついたのも,この交通路支配権と不可分の問題といえよう。
しかし室町時代以後になると,遍歴民による売場・立場などの縄張りの支配が顕著になり,道についても,そのある部分を特定の商人が支配する場合も見られるようになってくる。道は〈公界〉という本質は変わるところはないとはいえ,大道・街道などのような道と,村々を結ぶ細い道,山の道,海の道など,さまざまな道の具体的な支配のあり方については,さらに具体的に研究を進める必要があろう。
執筆者:網野 善彦
ヨーロッパ
道路の建設
正式な道路ができるのは,おそらく車輪のある輸送機関が一般に使われるようになってからであろう。しかし,まだ車輪のなかった古代エジプトの初期には,例えばピラミッドの建設の場合のようにローラーと綱とで巨大な重い石を運ぶために,土手の築造や輸送道路づくりに硬い石が用いられていたことはまちがいあるまい。また,前2000年ころのクレタ島のクノッソス宮殿には石の舗装道路の遺跡がある。
古代ギリシアになると,山岳が多く平地の少ない地勢からいって小道か馬道が主で,傾斜もしばしばあった。そして道路建設が国家事業とみなされることはなかったが,ただ一つ例外があった。それは,巡礼や祭礼行列などが行われる〈聖なる道〉の建設である。これらの〈聖なる道〉では,車の〈わだち〉が注意ぶかく掘られ,磨かれ,平らにされて,2輪車が通りやすくされている。このように〈わだち〉の通るあとを掘りこむというのは,ちょうど今日の汽車の走るレール(地面からつき出ている)とは凹凸が逆であり,ギリシアの道路の大きな特色をなしている。この特色は,古代ローマにも伝わっているし,産業革命前のイギリスの採石場などにも使われている。
ローマ時代になって,領土が拡大するとともに,道路の整備は軍事的にも行政的にも非常に重要になって,大きく改良された。まず,道路は従来のように曲がりくねったものでなく,できるだけ直線的なものにされた。道路建設は国家的大事業の一つで,その種類は,土地の石質や重要度でさまざまだったが,大きく分けて〈舗装道路〉〈砂利敷き道路〉〈砂利を敷かぬ道路〉の3種があった。なかでも舗装道路は,ローマ市郊外にある有名な執政官アッピウス,フラミニウスなどの名をとった道路で,最も念入りにつくられている。その標準的な断面図は,各層の上方から置き石または砂利のコンクリート(コンクリートはローマ人の発明),砕石とモルタルを用いたコンクリート,セメントモルタルを用いた石板と石塊,砂層の上部のモルタル層となっている。幹線道路のこのじょうぶな構造について,当時の頑丈な城壁と対比して,幹線道路を地中に埋めた城壁だという学者もいる。
ローマ時代の道路は下水設備も一応あって,それほど不潔ではなかったが,中世になると道路にごみや下水や汚物などが捨てられ,伝染病の温床になったこともある。
→ローマ道
執筆者:平田 寛
街道ヨーロッパにおける道は古代から中世を通じて街道と村の道に分けることができる。街道は何よりもまずできるだけ集落との接触を避けてひたすら遠くを目ざす道であった。主として経済上の目的と軍事上の目的のために建設され,名誉ある者ならだれでも自由に通行できた。すでにローマ時代にゲルマニアの森や湿地帯を貫いてバルト海や北海と北イタリアを結んでいた〈琥珀の道〉には,コハク(琥珀)の産地であるプロイセンのザムラントから船でワイクセル(ビスワ)河口に運ばれたコハクを南のブレスラウを経て,メーレンを通り,ドナウ川を下ってウィーンの近くまで運び,そこからさらに北イタリアに運ぶ街道と並んでいくつかのルートがあった。塩や銅やワインを運ぶ道も遠く離れた各地域をつないでいたし,ローマ時代にすでにバーゼル~シュトラスブール~ケルン~ライデンへとライン川沿いの道がつくられていた。この道はコブレンツとマインツの間では幅6mもあるりっぱなものであった。
街道はときに〈国王の道〉と呼ばれる。街道や河川は国王の支配下にあると考えられていたからであり,皇帝や国王は関税,通行税を徴収し,護送権を行使した。1158年に皇帝フリードリヒ1世はロンカリアで,公道と船舶航行可能な河川とその支流が皇帝の支配下にあることを宣言している。中世法書の一つザクセンシュピーゲルにも〈国王の道路は1台の車が他のそれを避けることができるだけ幅広くあるべきである。からの車は荷積みの車に,そして積荷の少ない車は多い車に道を譲るべきであり,騎行者は車を,歩行者は騎行者を待避すべきである。彼らがしかし狭い道もしくは橋の上にいるか,人(車)が騎行者もしくは歩行者のあとについているならば,車は彼らが通り過ぎてしまうまで停止すべきである〉(ラント法Ⅱ-59-3)と規定している。街道の利用には詳しい規定があったのである。
しかしながらフリードリヒ2世は1235年にマインツの〈平和令(ラントフリーデ)〉において,これらの帝国街道に対する皇帝の権利を放棄した。帝国は街道を維持できなくなっていたのである。14世紀にカール4世が再び街道を王権の支配下におこうとしたが成功しなかった。街道はドイツでは以後領域君主の支配下におかれ,領域君主が関税や通行税を徴収し,旅人を護送する役割を担うことになる。街道はつねに平和の支配するところでなければならないとされ,公道上での犯罪は国王や領域君主の裁判所で裁かれることになっていた。道路の整備や修理は近隣の共同体に課されていたが,つねに不十分であり,倒木や土砂崩れ,結氷,洪水などに悩まされ,また盗賊に襲われる危険も多かった。道標も不備であったから分れ道で右へ行くか左へ行くかで,そのつど旅人の運命が左右されもしたのである。また馬のかいばを手に入れるのも困難であった。だからザクセンシュピーゲルによると,旅人は道から届くかぎりの畑の穀物や草を馬に食わせることができるとしている(Ⅱ-68)。遠隔地商人が行き交う街道には旅籠(はたご)があり,琥珀の道に沿って旅籠数軒だけからなる集落もあった。そこで旅人は食糧やかいばなどを手に入れることができた。近隣の農民が集まって市(いち)がたつこともあった。このような旅籠を中心とする集落が,のちに都市に発展してゆく場合もあった。
街道は本来遠隔地商業(遠隔地商人)と軍事目的のためにつくられたものであり,その限りでつねに統治者の治安立法の対象となった。中世末から近代にかけて中央集権化が進み,国家が末端の民衆にまで直接支配を及ぼそうとするとき,まず街道を整備することから始めた。支配者による民衆統治の有効な手段として街道が整備されるようになると,その影響はそれまで街道から離れて存在し,それとは別な原理のもとにあった村の道にも及んでくる。統治のための治安維持という原理はそれまでの村落社会における共同体原理とは異なった人間の関係を,具体的な道路の整備というかたちで強制することになる。
村の道
村の道はどのような状態だったのだろうか。三圃農法(三圃制)が行われるようになってからは,耕地は夏穀地,冬穀地,休閑地に3分割され,年々順次輪作されることになっていた。耕地群のなかには目に見えるかたちでは道はつけられていなかったから,耕作も決まった日時に共同で行わねばならなかった。さもないと,自分の耕地へ行くのに他人がすでに種子をまいた土地の上に牛や車を走らせることになったからである。耕作,種まき,収穫,乾草の刈入れなども共同で行われ,厳しい耕作強制がしかれていた。このような状況のもとでは,村落内部とくに耕作地に農道をつくる必要は最初は少なかった。しかし人口が増加し,農業が集約化してくるにつれ,村落共同体内部でも道路の不足は大きな問題となっていった。多くの農村では道路を新設して耕地を減少させるよりは耕作強制を強めて道路不足を補った。
耕作のための農道は冬道と夏道に分かれていたが,そのほかに乾草刈り用の道が6月だけ開かれ,秋の堆肥道,冬のそり道,休閑地の道など,特定の季節に開かれる道があった。家畜に水を飲ませるための道,牧地に追い込むための道,木を伐り出す道,泉への道,死んだ家畜を埋める場所への道なども重要な道であり,ほかに水車小屋への道があった。教会への道も重要な道であり,それは〈花嫁の左右を付添人が並んで歩けるだけの幅〉をもたねばならないとされている。中世においては道幅を規定する場合に近代のように抽象的な尺度によることなく,具体的な人間の営為によって測られていた。スイスでは女が手に牛乳の入ったバケツを持って楽に歩ける幅が定められていた。
道路は村落共同体員が総出で整備・維持することになっていたから,道路使用上の違反に対しても村落共同体内部で裁判が行われた。村落共同体内部の道はごくわずかの道を除いて恒常的な道ではなく,村落共同体規制によってようやく運用されえたから,外部の者に開かれた道とはいえなかった。それどころか,共同体規制を強化することによって道を減少させようとする傾向すらあった。だから道路を開放しようとする動きは共同体内部からはおこらず,領主や領域君主の政策として展開された。領主や領域君主は関税収入の増大,商取引の経済化,統治のための必要などの理由から街道の整備に力を注ぎ,村落内部にもその影響を及ぼそうとした。道路政策が中央集権的方向において展開されるのと同時に,村落内部の共同体規制が緩み,かつて街道と村の道を隔てていた異なった原理がひとつのものになってゆく。そのとき,中・近世における社会諸集団の自立性が破られ,個人が市民として国家に直接掌握される道が開かれることになる。
執筆者:阿部 謹也
中国
道という字は足の動作と首(頭)の会意兼形声文字であるが,別に大道に首をもつ象と考える説もある。前者では頭を前に向けて進む方向の意だが,後者をとると道路の通過する城壁の門下などに犠牲(いけにえ)の首を埋めこむ呪詛的行為とも解される。なお道と同様に使われる路(横の連絡みち)や塗(土をおしのばし固めたみち)も関係が深い。道が祓除の場であり,聖なる空間として認識されたという想定は,祖道と称し,道祖神をまつることともつながる。古代中国では,例えば国都の城内大道の使用は厳格に規定され,道の中央は王のみが通行する場所であった。唐都長安の南北に延びる幅150mに近い大街もそれと関連し,御道,御街と呼ばれる皇帝を念頭においた道路の呼称は宋代まで継承される。ちなみに経書では《礼記(らいき)》の〈王制〉に男子は右側,女子は左側,車は中央といった規定,《周礼(しゆらい)》の〈遂人〉には遂,径,畛(しん),涂,道の5種類の道路の区分が載せられている。このような道の神聖・厳格性,さらには直線・普遍性などの要素が加わって,道理,道徳あるいは道教といった人倫とつながる抽象的意味が派生した。経が径と表裏するのと同じである(儒教。なお儒教的な概念については別項の〈道〉を参照されたい)。
道路網の発生
中国で単に集落間の自然発生的な道路ではなく,大地域にわたる統一権力により,一定の土木工事を伴って道路建設が進められたのは,秦の始皇帝のときが最初である。しかしそれ以前にも,各小国家内において道路の整備は行われ,例えば《詩経》の〈小雅〉〈大東〉には〈周道は砥(といし)の如し。其の直なること矢の如し〉のように見えている。このころ交通機関や戦争において車馬が用いられるようになり,道路もそれに応じるよう整備されたのであろう(車)。その際,利用頻度や重要度により構造の違いが生まれ,前述の《周礼》などに見える道路の規模による序列は,それが理念上で形式化されたものと考えられる。またこのころから道路のかたわらには木が植えられ,駅伝などの設備も設けられていた。戦国時代には華北平原から関中にかけては,かなり高度に発達した道路網が存在していたと考えられる。
幹線網の確立
始皇帝は全国を統一して郡県制を施行するとともに,統一政策の一環として車の軌幅を同一にし,馳道と称する官道を建設した。道幅は50歩(約67.5m),地面より高く版築でつき固め,3丈(約6.75m)ごとに青松を植えて並木とするという壮大華麗なものであった。馳道は首都咸陽(かんよう)を中心に,東北は燕,東は斉,南東は呉・楚まで,秦に併合された諸国の主要都市を放射状に結び,従来から各国内にあった道路と併せ,その後の中国北方道路網の基幹となった。
このように従来から開かれた地域へ通ずる幹線路と並び,版図の拡大とともに,新たに開発された地域に通ずる道も建設された。関中からみて東へは,渭水(河),黄河の河谷の向かうままに容易に交通路を得るが,他の方向には自然の障壁があって,安定した交通路を確保するには相当の土木工事を必要とした。とくに南には秦嶺山脈が横たわり,その南の漢水流域,さらに四川盆地へ至るのはきわめて困難であった。しかし肥沃な土地をもつ四川盆地との交通は早くから注目され,戦国時代に秦は金牛道の名で知られる山間の道を開いていた。古くシルクロードにより西方へもたらされた絹には,こうして蜀(四川)から運ばれたものがあった(巴蜀)。道の一部は断崖に木を打ち込みその上に桟をかけ渡したもの(桟道)であった。その後も秦嶺横断の道路はしばしば改修され,漢の武帝のときには山麓までの水運を効果的に利用しようとする褒斜道(ほうやどう)も開かれた。しかし蜀への道の険阻なることは変りなく,李白の楽府〈蜀道難〉には〈蜀道の難は,青天に上るより難し〉とうたわれている。同じく漢武帝のころ,多くの資材を伴う難工事であったが,蜀よりさらに南,西南夷と呼ばれた雲南地方へ至る道路も開かれた。またその過程で漢文化の流入が著しく進んだのであった。
一方関中より北へは,秦の始皇帝のとき,匈奴討伐のためオルドスの北に設けられた前進基地である九原郡(包頭市付近)と咸陽の北,甘泉山とを結ぶ1800里(約7500km)に道路が開かれたが,この地域は黄土地帯であるため,秦嶺山脈のような地形上の障害が少なく,最短距離を結んで直線に近いルートをとることができた。尾根上を走るルートは恒常的な維持・管理が難しく,のちには集落の分布と結びついた谷を通るルートにとって代わられたが,今も咸陽より長城に至る子午嶺の上にその遺構を見ることができる。また前漢代には,華北平原より北に朝鮮半島まで道路が延ばされたが,これも雲南と同様,難工事であった。
関中より西へは,渭水を遡行して緩やかな起伏を越えれば河西回廊のオアシス地帯に達し,西域に展開するいわゆるシルクロードと結ばれた。砂漠地帯といってもオアシス間の固定したルートをとるかぎり安全で,中国で最も早く開かれた長距離交通路であった。
後漢に入ると,北方でも部分的に改修が加えられたりしたが,南方の長江(揚子江)以南に新しい道路の建設が進められ,江西,湖南と広東,広西,さらには越南(ベトナム北部)を結ぶルートが開かれた。しかし南方での交通はできるかぎり水運を利用し,水運の限界点より次の限界点までを道路で運ぶものであった。こうして後漢までにほぼ全国の幹線道路網が確立したが,一つだけとり残されたのは福建の東南海岸地方であった。
道路と中国史
関中に都があった唐までの中国では,経済,軍事の二大原因のため,国都を中心とした放射線上の道路建設が重要な国家的事業の一つだった。むろん《書経》〈禹貢〉でも明らかなように水運の重要性は軽視できないが,少なくとも漢代までは陸路の占める地位はかなり高かった。ところが国の中心が東へ移り,経済的基盤が南方に傾斜するにつれて河道,運河による水運の役割が増大し,〈水の道〉が〈陸の道〉を圧倒しはじめる(大運河)。国家もまた道路行政への政策の大部分を水運(漕運)路の維持・改善に注ぎ,陸路は水系と水系の接続や,水運の通じない山間地帯以外は副次的に扱われる。むろん唐以後とくにモンゴル王朝の元朝などでは水路以外の駅伝制,郵逓制(ゆうていせい)なども整備はされたが,一般人民や官員が商用,赴任などで長途の旅行をする場合には,陸路の安全性は保証されがたく,清代では鏢局(保鏢)と呼ばれる用心棒(旅行業者)が必要であった。むろん水の道においても鏢局をはじめ運船業,荷役人,旅店業その他多種多様な道(みち)と関係する社会集団が存在し,彼らはそれぞれ幇(パン)(結社)を組み,平時は表向きは体制の協力者として機能するが,社会変動期には反体制集団の中核にかわりやすい。黄巣,太平天国から長征まで,反体制運動が長途の移動の道を伴っていたこともそれと無関係ではない。
一方東南部の大運河によって結ばれた水運の地域に比べて,西北,西南の陸上交通を主とする地域は,しだいに社会・経済的に遅滞し,沿海と内陸の大きな格差を生み出していった。宋以降,国都が関中より華北平原に進出してから,いっそうこの傾向は強まったといえる。長い前近代に形成されたこの基本的構造は,近代に入り鉄道と自動車交通の発達により部分的に変化をみせたが,依然として変わらぬ部分があり,現在の地域整備の大きな課題となっている。
執筆者:秋山 元秀