大阪(府)(読み)おおさか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大阪(府)」の意味・わかりやすい解説

大阪(府)
おおさか

近畿地方の中央低地の西部にあり、北は京都府、東は奈良県、南は和歌山県、西は兵庫県に接し、南西部は大阪湾に臨む。古来、水陸交通の要地にあって、早くから先進地域をなし、現在も商工業が発達し、東の東京都と並び、西日本の中枢的地位を占めている。「大坂」の地名は、室町時代中期に石山御坊(のちの石山本願寺)を創建した蓮如上人(れんにょしょうにん)の『御文(おふみ)』にみえるのが最初で、古名は難波(なにわ)といった。「大阪」の字を用いるようになったのは江戸後期からで、明治以降行政地名となった。府の面積は埋立地造成により増加し、1988年(昭和63)には香川県を抜いて都道府県最下位を脱し、人口は東京都、神奈川県に次ぎ第3位にあり、人口稠密(ちゅうみつ)地域をなしている。面積1905.32平方キロメートル、人口883万7685(2020)。府庁所在地は大阪市。

 府下の人口増加率の推移をみるに、日本の高度経済成長期の1960~1965年の20.9%の大幅増加を頂点に増加率は低下傾向をたどり、阪神・淡路大震災の影響で1995年(平成7)にプラスになった以外、1989年以降、2000年まではマイナスとなっている。これは、人口の自然増が縮小する一方、経済成長の低調が社会増の減少につながったものである。また、人口の都市別増減の推移をみるに、大阪市を中心に隣接の守口、門真(かどま)、東大阪市などで人口減少を生じている反面、大阪市から20~40キロメートル圏内にある大阪狭山(おおさかさやま)、交野(かたの)、和泉(いずみ)、泉佐野、箕面(みのお)などの各市では人口増加をみ、いわゆる人口のドーナツ現象が顕著となっている。

 2020年10月時点では33市5郡9町1村からなっている。

[位野木壽一・安井 司]

自然

地形

瀬戸内陥没地帯の一部をなし、中央部に大阪平野と大阪湾の窪地(くぼち)帯があり、その北部、東部、南部を山地、西部を淡路島で囲まれた一大海盆状の地形である。

 北部の山地は、剣尾山(けんびさん)(784メートル)、妙見山(みょうけんさん)(660メートル)など古生層からなる隆起準平原で、南端は箕面断層崖(がい)で境する。東部の山地は南北に縦走する生駒山地(いこまさんち)と金剛山地(こんごうさんち)からなる。基盤はおもに片状花崗岩(かこうがん)であるが、褶曲(しゅうきょく)運動に断層を伴う傾動地形を示し、生駒山地は西側に生駒断層崖、金剛山地は東側に葛城(かつらぎ)断層崖の急崖をなす。生駒、金剛両山地間には第三紀中新世の火山の名残(なごり)である二上山群(にじょうさんぐん)(最高517メートル)がある。南部には中生代和泉(いずみ)砂岩層からなる和泉山脈がある。褶曲に断層運動が加わり、とくに南側は紀ノ川河谷に急崖を示す中央構造線が通る。これらの山地は景勝と眺望に恵まれ、北部は明治の森箕面国定公園に、東部と南部の一部は金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。山麓(さんろく)には300~100メートルの千里丘陵(せんりきゅうりょう)、枚方丘陵、河泉丘陵(かせんきゅうりょう)などがあり、丘陵に接続して50~20メートル級の台地が段丘状に存在する。

 中央部の大阪平野は、更新世(洪積世)の入り海(河内湾)が淀川(よどがわ)、大和川(やまとがわ)などの諸河川の運搬土砂で堆積(たいせき)した氾濫原(はんらんげん)である。海岸線もこれらの河川の三角州と沿岸潮流による砂浜海岸であったが、近年堺(さかい)・泉北臨海工業地帯など、埋立てによる人工的海岸に変貌(へんぼう)した。

[位野木壽一・安井 司]

気候

瀬戸内式気候帯に属し、一般に気候温和である。大阪市の年平均(1981年~2010年の平均値、以下同)気温は16.9℃で、月別平均気温では1月の6.0℃が最低で、8月の28.8℃がもっとも高い。山地部と平野部の気温差は相当にあり、北摂山地の能勢(のせ)では冬季に0℃以下になることも多く、寒冷気候を利用して寒天(かんてん)製造が行われた。大阪市の年降水量は1279ミリメートルで、比較的少ない。月別平均は12月の43.8ミリメートルが最少、6月の梅雨期が184.5ミリメートルで最高である。盛夏には晴天が続き、干魃(かんばつ)をもたらすことがある。風向は地域により相違があるが、大阪市域では西風と北東風が卓越する。とくに夏季の晴天日は日中に海軟風、夜間に陸軟風となり、その交代時には朝凪(あさなぎ)・夕凪の無風状態を生じ、蒸し暑い。また、西風によるスモッグ現象も、臨海工業地域のみならず内陸部でも悩みとなっている。

[位野木壽一・安井 司]

歴史

先史・古代

府下での旧石器時代遺跡は、発掘ブームで爆発的に増加している。その代表的遺跡としては、交野台地上の神宮寺遺跡、二上山麓の新池遺跡、道明寺台地の国府遺跡(こういせき)があり、握斧(あくふ)型石器、ナイフ型石器類が洪積層中から発掘された。これらから旧石器時代に二上山の安山岩を原石とした石器が、生駒山麓から枚方、交野の丘陵、台地方面にも広がり、先史人の活動の舞台となっていたことがうかがえる。府下最古級の土器(縄文土器)の出土品には神宮寺遺跡や穂谷遺跡(ほたにいせき)の押型文土器、国府遺跡や錦織遺跡(にしごりいせき)の羽状文や爪形文(つめがたもん)土器などがあり、国府遺跡では70体余の人骨を発掘した。また大阪市内の森の宮遺跡(もりのみやいせき)からは貝塚とともに人骨を出土した。この縄文後期~弥生(やよい)時代の貝塚からは、下部の海水産のマガキから上部の淡水産のセタシジミの貝殻層の出土がみられ、古大阪湾(河内湾)がしだいに潟湖(せきこ)(河内潟)に移行し、大阪平野の形成が進んでいったことを物語っている。農耕文化を示す弥生時代の遺跡は、台地末端地から高位沖積地に広がり、代表的なものに瓜生堂(うりゅうどう)、池上曽根、四ツ池、安満(あま)などの遺跡がある。これらのなかには、農業共同体が進み大規模な集落をなすものも現れている。農耕の開発とそれに伴う灌漑(かんがい)施設事業の大規模化とともに村落国家の出現をみ、それらが統合されて大和朝廷への統一へと進んでいった。それを象徴する豪族の古墳群は、丘陵・台地面に広く分布し、応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)(誉田山古墳(こんだやまこふん)が指定される)を中心とする古市古墳群(ふるいちこふんぐん)、仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)(大山古墳(だいせんこふん)が指定される)を中心とする百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)などの大王陵の古墳群が築造された。この古墳最盛期の3~5世紀には朝鮮との往来も盛んとなり、渡来人が多く大阪地方に定住し、文字、仏教などの文化面をはじめ機織(はたおり)、窯業(ようぎょう)などの産業、灌漑などの土木技術を伝えた。

 飛鳥(あすか)時代、奈良時代になると、中国からの大陸文化の輸入も盛んになり、難波津(なにわづ)はその門戸として繁栄を極めた。『日本書紀』によれば、応神天皇の難波大隅宮(なにわおおすみのみや)、仁徳天皇の難波高津宮(なにわたかつのみや)、さらに孝徳天皇(こうとくてんのう)の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)の造営をみ、奈良時代になると聖武天皇(しょうむてんのう)の難波宮などの遷都が行われた。また難波から飛鳥への官道には、聖徳太子創建と伝える四天王寺や野中寺(やちゅうじ)、また交野台地には百済寺(くだらでら)などの建立をみた。当時大阪平野の開発は一段と進み、646年(大化2)班田法の施行に伴う条里制が全国に先駆けて行われた。律令(りつりょう)体制のもとに摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(いずみ)の3国が定められ、それぞれに国府や国分寺、同尼寺などが置かれた。

 平安時代中ごろになると、難波津の繁栄も、淀川河口の土砂の堆積が進んで港の機能を失い、しだいに衰退に向かい、わずかに四天王寺、住吉大社の門前町として余命を保っていた。そのころから地方武士の台頭をみ、河内国では源頼信(みなもとのよりのぶ)、頼義(よりよし)、義家(よしいえ)らの河内源氏が輩出し、その後裔(こうえい)源頼朝(よりとも)に至って鎌倉幕府の成立をみた。

[位野木壽一・安井 司]

中世

鎌倉末期から南北朝時代にかけては、南朝の主柱楠木正成(くすのきまさしげ)・楠木正行(くすのきまさつら)の一族が河内国赤坂、千早城(ちはやじょう)を根拠として、北条氏さらに北朝の足利(あしかが)氏と戦い、難波をはじめ摂津、河内の地方は戦乱のため荒廃に帰した。

 室町時代中期ごろ、大内、細川、三好(みよし)氏ら守護大名の庇護(ひご)を受けた堺(さかい)が港都として栄え、ことに1469年(文明1)遣明船(けんみんせん)の渡来から海外貿易の拠点となり、さらに南蛮船の往来をみるようになった。宣教師フランシスコ・ザビエルのキリスト教伝播(でんぱ)や鉄砲製造、更紗(さらさ)の技術の導入など南蛮文化の開花をみた。当時の堺は市街の周囲を堀で囲み、行政は36人の会合衆(えごうしゅう)による自治制がとられた。

 一方、大坂も1496年(明応5)浄土真宗中興の英僧蓮如(れんにょ)上人が石山御坊を建立し、石山寺内町(じないまち)が形成された。宗勢が隆盛するにつれて天下統一を目ざす織田信長と衝突し、11年にわたる石山合戦となった。のち信長と和睦(わぼく)した宗徒は大坂を退去し、かわって1583年(天正11)羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))がここに大坂城を築城した。城下町は整備され、政治の中心地になるとともに、堺の商人を移住させて商都の基盤も確立した。

[位野木壽一・安井 司]

近世

大坂の陣(1614~1615)で豊臣氏が滅亡した後は松平忠明(まつだいらただあきら)による戦後の復興が行われたが、忠明移封後は大坂は堺とともに江戸幕府直轄の天領となり、商都としての経営が進められた。ことに淀川の中之島(なかのしま)、堂島(どうじま)を中心に諸国各藩の蔵屋敷が設けられ、全国の米をはじめ特産物の集散が行われ、大坂は「天下の台所」と称された。巨利を博した豪商は、大阪平野の新田開発にも投資し、鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)の開発した鴻池新田をはじめ各地に新田の開発をみた。また文化面でも、西山宗因(にしやまそういん)、井原西鶴(いはらさいかく)、近松門左衛門などを輩出し、町人文化の華を咲かせた。

 地方では、交通路の整備が進み、守口、枚方などの宿場町、池田、佐野(和泉)の市場町、また特産木綿の集散地としての堺、貝塚、八尾(やお)、平野などの町々が発達した。幕府は摂津、河内、和泉の凝集力を恐れて分割統治を図った。在地大名領として明治の廃藩置県まで残ったのは、摂津の麻田藩(あさだはん)(1万石)、高槻藩(たかつきはん)(3万6000石)、河内の狭山藩(さやまはん)(1万1000石)、丹南藩(たんなんはん)(1万石)、和泉の岸和田藩(5万3000石)、伯太藩(はかたはん)(1万3500石)の6小藩にすぎない。そのほかは在外大名領(飛地(とびち)領)、旗本領、宮家・堂上家(公家)領、寺社領に細分割していた。

[位野木壽一・安井 司]

近・現代

1871年(明治4)の廃藩置県で大坂三郷(さんごう)と摂津国東半部は大阪府に、河内国と和泉国の2国は堺県となった。その後堺県は当時の奈良県を合併したが、1881年には大阪府が堺県を合併して広域となり、1887年には奈良県が分離独立して、ほぼ現状に近い府域となった。さらに1889年市町村制の施行により府域は大阪、堺の2市と12町320村になった。

 産業面では、明治初年に大阪に造幣寮(現造幣局)、造兵司(後の造兵廠(ぞうへいしょう))、さらに堺に紡績所などの官営工場が設けられて近代工業の初めとなり、これらに刺激を受けて紡績工業を中心に民間の近代工場がおこった。1868年には大阪開港、1874年には大阪―神戸間に鉄道が開通し、近代交通の発達に助長されて、大阪市は近代商工業都市として発展するに至った。また民間鉄道の目覚ましい発達は大阪市周辺に衛星都市を誕生させ、農村地帯の都市化が進んだ。

 1914年(大正3)に始まる第一次世界大戦は大阪府にも戦時景気をもたらし、工業は好況を呈した。阪神工業地帯を中心に、大阪府は東洋のマンチェスターとよばれ、戦後も軍需景気、輸出景気は続き、関東大震災の復興事業などもあって繁栄を続けた。しかし、1918年ごろから物価が急騰し、府民の生活を脅かし、6000人参加の大阪鉄工所ストなどのストライキや米騒動を引き起こした。農村部では中河内郡を中心に小作争議が繰り返された。

 1931年(昭和6)の満州事変、それに続く第二次世界大戦によって大阪府の産業は重工業中心となり、ますます軍需産業色を濃くした。1945年から本格的な空襲が行われ、大阪市、堺市などは焦土と化した。戦後、朝鮮戦争を契機に、大阪産業は復興したが、東京の復調に比して経済の回復は遅れた。この対策として、1955年(昭和30)に堺臨海工業地域、1957年に泉北臨海工業地域の造成が始まり、約10年の歳月を要して南北12キロメートルに及ぶ工業地帯の完成をみた。また大阪市に散在していた中小工場の集中化、協業化を図るため、大阪市の近郊の枚方市(ひらかたし)、和泉市(いずみし)、東大阪市などの工業適地に移動させた。1960年代の高度成長の波は府の産業を発展させるとともに、大阪市の近郊に人口集中化をもたらした。府はその対応策として大阪市の北方15キロメートルの千里丘陵を開発して大規模な千里ニュータウンを造成、また堺市南部の泉北丘陵にも泉北ニュータウンを建設した。

 1970年には近畿開発に寄与するものとして日本万国博覧会が開催された。千里丘陵を会場とし、道路や地下鉄が整備されるなど、地域開発を進展させた。跡地は万博記念公園となり、国立民族学博物館をはじめとして多くの文化施設がつくられた。その後も、関西文化学術研究都市の建設、国際花と緑の博覧会(1990)、関西国際空港の開港(1994)など、大きなプロジェクトが遂行されている。なお、2018年(平成30)現在、大阪市を中心に府下に33市を数える衛星都市をもつ大阪大都市圏を形成するに至っている。

 1995年1月17日早朝に発生した「阪神・淡路大震災」(1995年2月14日閣議で呼称決定、気象庁命名は「兵庫県南部地震」)は、マグニチュード7.3の都市直下型内陸地震で、淡路島北部から神戸・大阪にわたる諸都市を直撃し、甚大な災害をもたらした。その被害は、1923年(大正12)の関東大震災に次ぐものといわれる。

 大阪地方では、震度5を記録し、兵庫県に隣接する池田市、豊中市、大阪市の淀川河口などの低地で、死者30人、重軽傷者3589人、家屋の全半壊8116戸に上る被害があった。しかし、反面比較的被害の軽かった府下では一時被災者を受け入れ、府人口の微増があり、また大阪市などでは、流通・経済の面で神戸などの肩代りをし、関西経済の低落を支え、被災地の復興に貢献した。

[位野木壽一・安井 司]

産業

古来、日本の先進地域として開かれた大阪府は、農業、漁業などの第一次産業でも優位な地位を占めていたが、近世以来の大阪市の商都としての経済活動は、第二次産業としての工業の発展を促し、さらに明治以降の近代工業化は、大阪市を国内第二の商工業都市とした。またその影響下に府下に衛星工業都市を生み出し、阪神工業地帯を形成した。現在では京浜、中京工業地帯の都県と並ぶ工業府で、農林漁業は渋滞または衰退傾向をたどっている。

[位野木壽一・安井 司]

農業

古来、大阪平野は農業の先進地としても知られ、明治以降も近郊農業が盛んであったが、産業の高度化と都市化の急激な進展で農地は蚕食され、農家も変質してきた。2010年(平成22)の経営耕地面積は9409ヘクタールで、1970年(昭和45)当時の2分の1以下に減少している。農家も年ごとに減り、2万6360戸で府の全世帯数の0.7%にすぎない。農家のうち専業農家は10.6%で第2種兼業農家が29.2%を占める。1戸当り経営耕地面積も平均36アールと零細化してきた。しかし専業農家では、大阪市場に近い地の利を生かして特色ある農産物の栽培がみられる。おもなものに泉州のタマネギ、キャベツ、南河内のナス、キュウリ、堺、茨木(いばらき)市などの軟弱野菜(ミツバなど)の水耕栽培や神立(こうだち)(八尾市)のキク、和泉市のスイセン、泉大津市の観賞用植物、池田市の盆栽、植木などの園芸栽培、さらに柏原(かしわら)市付近の山麓のブドウ、河泉丘陵のミカンなどが有名である。

[位野木壽一・安井 司]

林業

大阪府の山地は比較的浅く、林野面積は約5万7000ヘクタールにすぎず、林家数は2887戸で、そのうち4.5%が農家林家で、95.5%が非農家林家である(2010)。林相は北摂山地のアカマツ、ナラ、クヌギ、クリ、タケ、南東の金剛山地、南の和泉山脈のスギ、ヒノキ、クロマツが主である。クリは「銀寄(ぎんよ)せ」の名で知られ、ナラ、クヌギの製炭は茶道用の「菊炭(きくずみ)」として市場価値が高い。

[位野木壽一・安井 司]

水産業

大阪湾に面し、かつては内海性漁業で知られ、近世にはイワシで干鰯(ほしか)を生産し、肥料として全国に販路をもっていた。しかし明治以降沿岸に阪神工業地帯の出現、さらに第二次世界大戦後は臨海工業地の造成で、漁業海域は狭められ、かつ海水汚濁などの環境悪化により衰退の一途をたどっている。しかし泉州南部海岸では伝統の漁業を踏襲し、漁業経営体数589経営体(2013)、2015年の漁獲量は約1万7000トンに上る。漁獲物はコノシロが増え、イワシ類、イカナゴ、アジ、エビ類などがある。このほか溜池(ためいけ)を利用したフナ、コイの養殖がみられる。

[位野木壽一・安井 司]

工業

阪神工業地帯の中核をなす本府の工業は、事業所数2万3564(2006年工業統計従業員4人以上)、従業者数51万7935人、製造出荷額等は16兆6478億円に上り、出荷額では全国の5.3%を占める。工業を業種別にみると、事業所数では金属製品(21.0%)をはじめ、一般機械、プラスチック製品、印刷などの順で、重化学工業が71.8%に対し、軽工業が28.2%である。出荷額等では、一般機械(14.4%)を筆頭に、化学、金属製品、鉄鋼、石油・石炭、電気機械、食料品などの順で、重化学工業が84.0%に対し、軽工業は16.0%を示す。総括して本府は軽工業と重化学工業の集結した総合型工業地域といえる。しかし工場規模からみると、小規模(29人以下)の工場が87.7%を占めるのも特色である。これは、近代工場の発達に、明治・大正期は地場産業の繊維、雑貨などを主体とし、昭和期、ことに第二次世界大戦後は金属、機械、化学などの重化学工業が計画的に導入されたことを物語る。府下の工業地域を大別すると、大阪市地域、大阪北部地域(淀川(よどがわ)の北部地域)、大阪東部地域(淀川と大和川(やまとがわ)間、河内平野(かわちへいや))、大阪南部地域(大和川以南、泉州地域)の4地域に区分される。

 大阪市地域は、事業所数において府下の34.4%、出荷額の24.1%を占めて府の中枢的地位にあるが、近年都市公害などで工場の郊外移転をみ、その地位は低下の傾向にある。

 大阪北部工業地域は、池田市の酒、能勢町(のせちょう)の木炭などの在来工業を除いては、東海道本線や昭和初期敷設の産業道路沿いに発達した内陸工業地である。おもなものに吹田市(すいたし)のビール、島本町(しまもとちょう)のウイスキー、池田市の酒醸造、ほか製菓、乳製品などの食料品工業や、高槻市(たかつきし)、茨木市、豊中市の電気機器工業、吹田市、摂津市の化学、金属工業や池田市の自動車工業などがある。中規模の工場が多く、出荷額は府の14.5%に上る。

 大阪東部工業地域は、かつて地場産業として河内木綿の農村工業や古大和川筋(すじ)の染色、晒(さらし)工業、また生駒山麓(いこまさんろく)の水車谷を利用した製粉、伸線業のみられた地域であった。明治以降大阪市内の東部工業地区(城東工業地区)の影響を受け、隣接の東大阪、八尾(やお)、守口、門真(かどま)などの諸都市が衛星工業都市として発達した。とくに門真市、守口市は松下電器産業(現、パナソニック)、三洋電機の二大電気機器メーカーの拠点として知られ、一帯はそれらの下請関連業が多い。ついでミシンなどの機械工業、針金、鉄索などの伸線業、鋳物などの金属業、ゴム、樹脂加工品などの雑工業が東大阪市に、また八尾市、柏原市の古大和川床にはアルミ、紡績、染色、晒工業のほか、八尾市の特産ブラシ生産などがある。枚方(ひらかた)市には近年衣料、家具、機械の工業団地が出現した。この地域の事業所数は府の34.0%を占めるが、中小規模工場が多く、出荷額は28.9%にとどまっている。

 大阪南部工業地域は、堺市を筆頭に泉州海岸に並ぶ高石(たかいし)、泉大津、和泉(いずみ)、岸和田、貝塚、泉佐野の諸都市と、内陸の河内長野、富田林(とんだばやし)市などを含む。中心の堺市は、中世から鉄砲、刃物や織物、緞通(だんつう)、線香などの伝統工業が盛んで、そのほか泉州沿岸の諸都市も和泉木綿の産地として知られ、内陸の諸都市も製材、竹細工の在来産業があった。明治初年の堺市の近代紡績工業導入以来、在来の和泉木綿の近代化と転換が進み、堺市の敷物、和泉市の織布、泉大津市の毛布、岸和田市、貝塚市の紡績、泉佐野市のタオルなどの繊維特産品を製造し、総称して「泉州紡織工業地帯」を形成、日本有数の繊維地帯となった。第二次世界大戦後、臨海埋立て事業が行われ、ここに鉄鋼、造船、機械、金属、精油、石油化学などの重化学工業や木材、食品工業などのコンビナートが形成された。大工場が林立し、従来の中小規模の繊維を中心とする地場産業と対照的な地域となった。大阪市地域に次ぎ、阪神工業地帯の一中核を占めている。

 近年、大阪市や堺市などの中小工場過密地では、都市公害や交通渋滞を避け、郊外適地に工場を集団移転し、工業団地を形成する傾向がある。当初は1961年(昭和36)大阪市東区(現、中央区)谷町筋(たにまちすじ)の既製服問屋が関連下請工場と枚方市に大阪紳士服団地をつくったのに始まり、軽工業部門は内陸、丘陵地に工業団地を形成した。これに対し、1966年大阪鉄工金属団地が岸和田臨海造成地に設立されたのに始まり、多くの重化学部門は大阪湾岸造成地に移転した。このため、大阪市工業地域の地位は相対的に低下し、大阪東部、南部地域の地位が高まってきた。

[位野木壽一・安井 司]

交通

大阪市を中心に西日本の交通の要衝地をなしている。JRは、1874年(明治7)大阪―神戸間に開通したのに始まり、今日では東海道本線、東海道・山陽新幹線、関西本線、片町線(かたまちせん)(学研都市線)、JR東西線(1997年開通)、阪和線、関西空港線(1994年開通)などが通じる。また大阪市内では大阪環状線、桜島線(ゆめ咲線)が走り、市営の地下鉄、バスとともに市内交通の重要機関となっている。私鉄の発達も目覚ましく、1885年阪堺(はんかい)鉄道(現、南海電気鉄道)をはじめとして、阪神電鉄、阪急電鉄、京阪電鉄、近畿日本鉄道の五つの私鉄が通じ、京都、神戸、奈良、和歌山など近畿の主要都市や、伊勢(いせ)、吉野、高野山(こうやさん)などの観光地と結んでいる。そのほか、北大阪急行、阪界電気軌道、泉北高速鉄道、水間鉄道がある。大阪国際空港と南茨木(みなみいばらき)を結ぶ大阪高速鉄道(大阪モノレール線)は1997年(平成9)に門真市まで延伸開業(本線)。1998年には国際文化公園都市線(彩都線)も開業した。また大阪市の港湾地区には中央線(旧、テクノポート線)、南港ポートタウン線(旧、ニュートラムテクノポート線)が走る。

 道路は、江戸時代の重要街道の京街道、山陽街道は現在国道1号、2号、奈良街道は同25号、紀州街道は同26号となり、主要道路の役割を継承している。また1970年(昭和45)開催の万国博覧会を契機に、大阪三大環状線と十大放射路が大阪市を中心に整備された。さらに名神、阪神、大阪湾岸線の各高速道路や、中国、近畿、西名阪、阪和自動車道などが走っている。

 海上交通は、1868年(明治1)に開港した大阪港が中心である。同港は阪神工業地帯を背景にした内外物資を取り扱う貨物港の性格が強い。旅客輸送は従来瀬戸内航路に限られていたが、最近南港のフェリー埠頭(ふとう)の完成で四国、九州への旅客輸送も増大した。大阪港に次ぎ、堺泉北港や岸和田港(阪南港と総称する)は、臨海工業造成地に付設された工業港で、化学工業製品や鉱産品・林産品の輸移出入港の役割を果たしている。大阪湾南端の深日港(ふけこう)(岬(みさき)町)は淡路島とフェリーで結んでいたが、関西国際空港の開港に伴い、航路の出発点が泉佐野港に移された。

 航空には、大阪国際空港、関西国際空港、八尾空港がある。大阪国際空港域は、伊丹(いたみ)市(兵庫県)、豊中市、池田市にまたがる。1939年(昭和14)、当時の伊丹村(現、伊丹市)に大阪第二飛行場として設置されたので通称伊丹空港ともよばれる。その後幾多の変遷を経て、1959年(昭和34)大阪国際空港となり、全国の主要都市、さらにアジアを中心とし世界各国と結ばれていた。しかし、空港の拡張と周辺の市街化が進むにつれて、騒音公害が激化した。その解決策として、関西国際空港が1994年(平成6)9月4日開設された。同空港は、泉州沖5キロメートルに造成された空港島にある。騒音公害を防ぐとともに、昼夜24時間運航可能な日本初の本格的な空港で、国内各地を結ぶ国内線はもちろん、世界27か国、68主要都市(2010)を結ぶ国際線が就航している。2007年第二滑走路の完成により、新しい空の玄関として、本府のみならず関西一円の経済発展の基盤となる。なお、関西国際空港の開港により、大阪国際空港は国内線用として利用され、一般に大阪空港とよばれている。八尾空港は八尾市に所在し、小型機用の商業空港としての役割を果たしている。

[位野木壽一・安井 司]

社会・文化

近世以来、大坂は京都とともに「上方(かみがた)」とよばれ、江戸と対照的な地位にあった。その伝統は今日でも、教育・文化に特色ある性格を発揮している。

[位野木壽一・安井 司]

教育・文化

江戸時代、大坂の学問所の開設は町人の力に負うことが多かった。1717年(享保2)に住吉郡平野郷につくられた郷学含翠堂(がんすいどう)も郷内の有力者の出資によるもので、陽明学、古学、朱子学を教え、明治初年の学制公布まで続いた。1724年に開設した中井甃庵(なかいしゅうあん)の漢学塾の懐徳堂(かいとくどう)も好学の大坂商人らの出資によるものであった。大槻玄沢(おおつきげんたく)門下の橋本宗吉(はしもとそうきち)は大坂で医業を営むとともに蘭学(らんがく)を教え、多くの門下生を集めた。門下に中天游(なかてんゆう)がおり、彼に蘭学を学んだ緒方洪庵(おがたこうあん)は1838年(天保9)に適々斎塾(てきてきさいじゅく)を開いた。医業のかたわら蘭学を教え、約20年間に3000人余の塾生を育成した。国指定史跡の「緒方洪庵旧宅および塾」(大阪市中央区北浜)は1843年に移転したときの建物である。適々斎塾の蘭学を源流とし、1880年(明治13)に発足した府立大阪医学校は、大阪医科大学、大阪帝国大学医学部を経て、現在大阪大学医学部となっている。阪大にはこのほか理、工、法、文、経、歯、薬、基礎工学、人間科学、外国語の学部があり、千里丘陵に立地する。このほか国立大学に大阪教育大学、公立大学に大阪府立大学、大阪市立大学がある。私立大学には、関西法律学校を前身とする関西大学のほか、近畿大学など、総計54校、また短期大学31校(2012)があり、このほか多くの高専、高校が整備されている。大学の傾向としては、多種多様化したなかでも、商、経、工学系など実学的大学が多い。

 マスコミも西日本の中枢として重要な地位を占めている。1876年(明治9)創刊の『大阪日報』は1888年『大阪毎日新聞』となり、『朝日新聞』は1879年に大阪で創刊したのに始まる。『産経新聞』も1933年(昭和8)大阪で創刊された『日本工業新聞』を前身とする。現在ではこのほか『読売新聞』『日本経済新聞』などが大阪に本社を置いている。このほか『大阪新聞』などの地元新聞やスポーツ新聞などがあり、総発行部数約405万部(2006)に上り、東京都に次いでいる。

 放送面は、日本放送協会(NHK)大阪放送局が1925年(大正14)ラジオ放送したのに始まる。民間放送には毎日放送、朝日放送、関西テレビ、読売テレビ、テレビ大阪などがある。

 文化施設としての公民館、図書館、博物館、美術館などは、大阪市を中心に各衛星都市にみられる。1996年(平成8)には東大阪市に府立中央図書館が開館した。「大阪市」の項に記述するもののほか、万国博覧会場跡の記念公園内の国立民族学博物館、大阪府立中央図書館国際児童文学館、大阪日本民芸館や、豊中市の日本民家集落博物館、池田市の逸翁美術館(いつおうびじゅつかん)、堺市博物館、泉北考古資料館(泉北すえむら資料館に名称変更。2016年閉館)、忠岡(ただおか)町の正木美術館、和泉(いずみ)市の久保惣記念美術館(くぼそうきねんびじゅつかん)、箕面市の箕面公園昆虫館、河南(かなん)町の大阪府立近つ飛鳥博物館などがある。

[位野木壽一・安井 司]

生活文化

府民の生活文化に関しては、昭和の初期までは摂河泉の旧国ごとに、その自然環境と歴史を背景にして、食住の生活、民俗芸能、伝説や文化遺産、特産物などに地域色を色濃くみせていたが、第二次世界大戦中の経済統制や戦後の都市化の進展で生活文化の近代化と画一化が急激に進み、地方色は薄れてきた。そのなかにも文化の伝統は根強く息づいている。ここではそれらにつき、大阪市域、北摂地域、河内地域、和泉地域の4地域に分けて記す。

(1)大阪市域 古代難波宮(なにわのみや)と難波津、中世石山本願寺の寺内町、近世大坂城下町としての商都、さらに近代商工業都市となった大阪市は、生活文化もそれらの文化の累積のうえに成り立っている。なかでも今日に生きているものは、江戸期の浪華商人(なにわしょうにん)の活躍と、そこから生まれた町人文化である。浪華商人のルーツは、豊臣(とよとみ)時代の町屋(まちや)の形成の際に誘致した堺商人と、江戸初期に移住した京伏見商人(ふしみしょうにん)とからなり、その後近江商人(おうみしょうにん)その他各国の商人の融合で上方文化と風習を生み出した。都心部の旧大坂三郷には船場(せんば)の方形型町割、下船場の長方形型の京町割が残っている。商家の食住の生活にも、「大阪市」の項に述べるように、土蔵造りの中二階、奥行の深いいわゆる鰻(うなぎ)住居で、表には格子戸(こうしど)と屋号入りののれんをかける。のれんは商家の信用のシンボルとして誇ってきた。食生活は質素に、倹約と勤勉を旨としてきた。西鶴(さいかく)の『日本永代蔵』にも「金銀を神仏」と崇(あが)める風潮は、「現世利益(げんせりやく)」の社寺詣(まい)りや祭礼を盛んにし、また縁起をかつぐ気風をも生み出した。商家の神棚には京伏見の稲荷(いなり)を祀(まつ)り、年中行事の正月明けは、十日戎(とおかえびす)に始まり、福笹(ふくざさ)を求めて店頭に飾った。夏の天満天神祭(てんまてんじんまつり)や陶器祭、冬の神農祭(薬種神)などの祭礼も商売繁盛を祈念しての祭りが多い。縁起をかつぐ風習も、ミナミの道頓堀(どうとんぼり)に架かる「戎橋(えびすばし)」は、もと「操(あやつ)り橋」であったものが、南の今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)への参詣(さんけい)通路に架かるところから戎橋となり、その西に架かる「大黒橋」も、もと「難波橋」が、戎、大黒の二福神にあやかって並称されるようになったもの。大阪名産の粟おこし(あわおこし)は、もと糒(ほしいい)を原料としたといわれ、塩こんぶやかまぼこ類は生活の実用性から生まれたものである。四天王寺の聖霊会舞楽(しょうりょうえぶがく)と住吉大社の住吉の御田植(おんだうえ)はともに国の重要無形民俗文化財に指定されている。

(2)北摂地域 北摂山地と山麓(さんろく)平野部からなるこの地域は、中世以来山地は山岳信仰の対象に、平野は京都に隣接して京文化の影響を受けてきた。山地の東、高槻市の奥山にある天台宗神峰山寺(かぶざんじ)は8世紀に開成皇子(光仁天皇の皇子)の開基と伝えられ、箕面の山腹にある勝尾寺(かつおじ)とともに名刹(めいさつ)として知られる。さらに西にある妙見(みょうけん)山上には日蓮宗(にちれんしゅう)の関西での拠点である妙見堂が祀られている。本堂は中世末に城主能勢頼次(のせよりつぐ)が守護仏北辰妙見大菩薩(ほくしんみょうけんだいぼさつ)を祀ったもので、当時領内の真言宗の領民を強制的に日蓮宗に改宗させたところから、「イヤイヤ法華(ほっけ)」と悪評されたが、のちに妙見参りの盛んになるにつれ、他宗の参詣人も一時日蓮宗徒となる「百日法華」の風習が行われた。山間の河谷や小盆地は、大阪地方の小秘境地をなす。茨木市の千提寺(せんだいじ)や下音羽(しもおとわ)はキリシタン大名高山右近(たかやまうこん)の治下にあって、領民のなかにはキリスト教を信奉する者もおり、同教弾圧下にも「隠れキリシタン」として、仏教徒を装いながら厨子(ずし)にキリスト像を秘蔵してきた。妙見山の北にある能勢の小盆地は、この山地の代表的山村で、寒冷地のため第二次世界大戦前まで「大阪の北海道」といわれた。民家の形式も、屋根はかや葺(ぶ)き、屋上には千木(ちぎ)が棟飾りとして並ぶ。多くは入母屋(いりもや)型ながら入口は妻入りで、内部の一方は土間で農具と山仕事の用具、奥に厩(うまや)とへっつい(かまど)があり、片方に座敷と納戸(なんど)、台所が並ぶ。丹波(たんば)高原一帯にみられる形式である。特産として、近世以来「能勢の三白、三黒」といわれ、米、白酒、寒天の三白、炭、栗(くり)、黒牛の三黒が特産であった。米は棚田式水田で栽培され、長谷(ながたに)地区では灌漑のため山の傾斜面に横穴式井戸(俗称がま)を掘った。

 平野部は山麓に西国街道(さいごくかいどう)(古代の山陽道)が通り、沿道付近には京寄りから、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)を祀る水無瀬神宮(みなせじんぐう)(島本町)、歌人伊勢(いせ)の隠棲(いんせい)した伊勢寺や能因法師塚(高槻(たかつき)市)、大陸渡来の呉織(くれはとり)、穴(綾)織(あやはとり)の工人を祀る呉服神社(くれはじんじゃ)、伊居太神社(いけだじんじゃ)(池田市)などがある。

 民家は、近世の西国街道の芥川宿(あくたがわしゅく)や郡山宿(こおりやましゅく)(本陣は国指定史跡)など街村に特色のある京風のべんがら塗りの家屋がみられる。池田市の愛宕火祭(あたごひまつり)は、8月24日夜五月山(さつきやま)山腹に「大」と「大一」の火文字を現し、その火を大松明(おおたいまつ)につけて、鉦(かね)を鳴らして街中を走り、火除(ひよ)け祈願をする祭りで、「がんがら火」ともいう。京の大文字の送り火に似た祭りである。

(3)河内地域 河内は大和国(やまとのくに)に隣接し、生活文化にも大和と深い関係をもってきた地域である。河内平野の北部は、近世中期大和川の付け替えで干拓新田となった低湿地帯で、水にかかわる歴史と伝説と生活を生んできた。集落は昔から洪水対策として、微高地の自然堤防を利用した堤防集落が多い。民家は、盛り土の上に母屋、納屋をつくり、母屋に続いて石積みの高い段蔵(だぐら/だんぐら)とよぶ蔵を設けている。段蔵は二階式にし、下には米、みそなどを備蓄し、上は蔵座敷(くらざしき)として貴重な家財を置き避難所としてきた。収穫した稲や特産の蓮根(れんこん)の運搬には水路を田舟(たぶね)で行き来し、ハス田での蓮根掘りには田下駄(俗称ナンバ)を用いた。

 河内平野の南部と二上(にじょう)山麓一帯は、大和とともに、日本の先史・古代史の舞台であった。天皇陵の多い古市古墳群(ふるいちこふんぐん)には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御魂(みたま)が白鳥となって飛来した神話にまつわる白鳥御陵(日本武尊陵、前の山古墳が指定される)と白鳥神社(以上、羽曳野(はびきの)市)がある。二上山麓は大和の飛鳥(あすか)に対して「近つ飛鳥」とよばれ、聖徳太子御廟(ごびょう)のある叡福寺(えいふくじ)(上の太子、太子町)がある。竹内街道(たけのうちかいどう)沿いの野中寺(やちゅうじ)(中の太子、羽曳野市)や勝軍寺(しょうぐんじ)(下の太子、八尾市)とともに「河内三太子」とよばれ民間の太子信仰の中心となっている。

 藤井寺市の道明寺は、菅原道真(すがわらのみちざね)の祖先土師(はじ)氏の氏寺で、尼僧のつくる「道明寺糒(ほしい)」の名産がある。また隣接する道明寺天満宮は菅公の命日(3月25日)には菜種御供(なたねごく)の行事があり、菜種色の団子を供えてのち、厄除(やくよ)けとして参詣人に配る風習がある。

 南部河内の集落には条里制地割に沿う条里集落が残り、民家には大和棟の家がみられる。大和棟は急勾配(きゅうこうばい)の切妻の屋根で、かや葺きの両端には2列の丸瓦(まるがわら)、屋上は大雁振瓦(がんぶりがわら)を置き優雅な中国大陸風の風情で、大和地方からこの地に分布する。富田林市や八尾市久宝寺(きゅうほうじ)の集落のなかに、周りを堀と竹林の土居(土塁)で囲んだ寺内町がある。戦国時代に真宗の門徒が御坊(ごぼう)を中心に集団で形成した自衛的役割をもった集落である。

 河内地方の農家では朝食に茶粥(ちゃがゆ)を食べる風習があったが、これも大和の茶粥の伝播といわれている。枚岡神社(ひらおかじんじゃ)(東大阪市)の正月行事に粥占いがあり、その年の豊凶を占う。また、夏の盆踊りに集落ごとに催される河内音頭(おんど)と踊りは、本来念仏踊を基調としたゆったりとした踊りと語り音頭であった。

(4)和泉地域 和歌山県と境する和泉山脈と河泉丘陵・台地(山手側)、さらに海岸平野(浜側)はそれぞれの特色をもちつつ、関連した生活文化圏をつくっている。山手側の和泉山脈は山岳信仰と仏教の習合によって成立した修験道(しゅげんどう)の霊場となった所である。奈良時代役小角(えんのおづぬ)の開祖という葛木山(葛城山)(かつらぎさん)はいまの金剛山(こんごうさん)をさし、それに連なる和泉の山々には法華経(ほけきょう)二十八品(ぽん)にかたどった葛城二十八宿の行者堂が所々に設けられた。なかでも犬鳴山(いぬなきさん)七宝滝寺(しっぽうりゅうじ)、牛滝山(うしたきさん)大威徳寺、岩湧(いわわき)山の岩湧寺などには、壮大な堂塔のほかに行者の滝や行者場があり、修験者のみならず、いまも民間信仰の対象となっている。

 丘陵・台地は国内有数の溜池(ためいけ)の多い地帯である。雨が少なく、小河川のみのこの地域では、水田の灌漑水は古くから溜池や湧泉(ゆうせん)に頼ってきた。記紀にある日本最古の溜池の高石池、茅渟池(ちぬいけ)のほか、奈良時代に行基(ぎょうき)の築造した久米田池、光明皇后(こうみょうこうごう)ゆかりの光明池など溜池に関する記録、伝承が多い。また湧泉に対する水の信仰も深く、和泉(いずみ)府中(ふちゅう)(国府所在地)の「和泉(にぎいずみ)の井」が国名の起源になったことは有名で、現在泉井上神社(いずみいのうえじんじゃ)に水の神として祀られている。このほか和泉市の「葛葉(くずのは)の清水」や「桑原(くわばら)の井」も世に知られている。ことに後者は井中に雷神を閉じ込めた伝説をもち、雷除けのクワバラの呪文(じゅもん)はここに由来するとの伝承がある。干魃(かんばつ)の際の雨乞(あまご)い行事は、かつては前出の山々の寺院で行われるほか、村々の神社の境内でも、雨乞いの「こおどり」(鬼面、天狗面(てんぐめん)をつけ太鼓、鉦(かね)、音頭にあわせて祈りながら踊る)が盛んに行われた。現在残るものとしては、桜井神社(堺市)で行われる「上神谷のこおどり(にわだにのこおどり)」が有名で、国の選択無形民俗文化財に指定されている。山手の台地を通る熊野街道は紀州熊野三山参りの道で、平安末期の往還は「蟻(あり)の熊野詣」といわれる盛況を呈した。道中九十九王子神社が設けられ、和泉国にも堺王子、厩戸王子(うまやどおうじ)などの王子神社が置かれ、そこに布施屋(ふせや)や「佐野の市(いち)」などの集落が生じた。

 浜側は、堺をはじめ紀州街道沿いに集落が発達している。堺の街並みは往時の環濠(かんごう)都市のおもかげを一部とどめている。富商の多かった堺の民家は「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」に対して「堺の建て倒れ」といわれるほど建築に凝った。本瓦葺きの屋根に土蔵壁と袖壁(そでかべ)をもつ中二階、「おだれ」(軒先)のある重厚な構造で、国の重要文化財指定の建築物もみられる。本瓦葺きの屋根をもつ民家は、堺のみでなく紀州沿道の旧城下町岸和田やその他の町々や漁村また山手側の農村の旧家にも多くみられ、これが泉州の民家の特色となっている。

 泉州の祭りは、秋祭を主に、旧町村の氏神を中心に行われ、若者たちがふとん太鼓を担ぐ祭りと、だんじりを曳(ひ)く祭りの2様式が多くみられる。なかでも岸和田市の地車祭(だんじりまつり)(9月)は豪快さで知られる。また堺市の「堺まつり」(10月第3日曜、あるいは土曜・日曜)は南蛮行列を連ねて往年の南蛮文化を誇る祭りとしてにぎわう。

[位野木壽一・安井 司]

伝説

信州の本多善光(ほんだぜんこう)が、崇神排仏の争いから堀江(大阪市西区)の「阿弥陀池(あみだいけ)」に捨てられた百済(くだら)伝来の仏像を拾い上げ、郷里の長野に祀(まつ)った。それが善光寺の起源と『善光寺本地(ほんじ)』に伝えている。淀川右岸の江口には遊女の里があった。江口の遊女と西行法師(さいぎょうほうし)とのかかわりあいは『撰集抄(せんじゅうしょう)』『古事談』などにみえる。それをもとにしたのが世阿弥(ぜあみ)の謡曲『江口』である。「茨木童子(いばらきのどうじ)」は茨木の水尾(みずお)の生まれで、人の血の味を知ってから鬼形となり、酒呑童子(しゅてんどうじ)の片腕として悪名を天下にとどろかせたという。能勢(のせ)町大里には「名月姫」の屋敷跡がある。能勢家包(いえかね)に嫁いだ姫を見そめた平清盛(たいらのきよもり)が側室にしようとしたが、輿(こし)が名月峠に差しかかったとき姫は自害し、貞節を守ったという。淀川下流の三国(みくに)の巌氏(いわし)の碑は、「長柄橋(ながらばし)の人柱」の冥福(めいふく)を祈って建てられたものである。人柱になるのは母子が多いが、この橋の人柱は男である。門真(かどま)市の淀川にある茨田の堤(まんだのつつみ)の人柱も、「武蔵(むさし)の強頸(こわくび)」とよぶ男だった。もう1人、茨田の連(むらじ)袗子(ころもこ)も人柱に選ばれたが、川の神のお告げを疑い、試しにひさごを水に浮かべた。が、沈まずに流れたのを見て人柱にならなかったという。和泉市の「葛葉(くずのは)」は信太妻(しのだづま)ともよばれる異類婚姻譚(たん)である。この伝説を取り入れたのが竹田出雲(たけだいずも)の浄瑠璃(じょうるり)『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』である。説経節や謡曲『弱法師(よろぼし)』によって親しまれた「俊徳丸」も継子(ままこ)伝説で、天王寺(てんのうじ)が主要な舞台になっている。観世元雅(かんぜもとまさ)作の謡曲が成立する以前、語り物が先行していたらしい。『神道集』に摂津「芦刈明神事(あしかりみょうじんじ)」の本地物語がある。貧しさのゆえに別れた妻に未練があり、探し当てたところ、妻は長者の妻になっていた。芦売りに身を落としていた夫は恥ずかしさの極みに息絶えたという。この物語が「芦刈」の伝説として東大阪市日下(くさか)に根づいた。謡曲『芦刈』はこの伝説によるものという。また、「呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)」が堺の納屋衆(なやしゅう)とよばれた貿易商だったことが『太閤記(たいこうき)』にみえている。珍貴な品を献上して秀吉の寵(ちょう)を得たが、居宅に贅(ぜい)を尽くしたかどで怒りを買い、海外に脱出した。その後、カンボジア国王に信任されて活躍したと伝えられる。

[武田静澄]

『牧村史陽著『大阪ガイド』(1961・東京法令出版)』『大阪自然科学研究会編『大阪の自然』(1966・六月社)』『『大阪百年史』(1968・大阪府)』『大阪府教育委員会編『大阪の文化財』(1970・大阪府)』『大阪高等学校地理研究会編『大阪――その風土と生活』(1973・二宮書店)』『日本地誌研究所編『日本地誌15 大阪府・和歌山県』(1974・二宮書店)』『『大阪府史』1~7巻、別巻(1978~1991・大阪府)』『井上薫編『大阪の歴史』(1979・創元社)』『『角川日本地名大辞典 大阪府』(1983・角川書店)』『『日本歴史地名大系28 大阪府の地名』全2冊(1986・平凡社)』『津田秀夫責任編集『図説 大阪府の歴史』(1990・河出書房新社)』『藤本篤他著『大阪府の歴史』(1996・山川出版社)』『平山輝男他編『大阪府のことば』(1997・明治書院)』


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