江戸時代、大坂の学問所の開設は町人の力に負うことが多かった。1717年(享保2)に住吉郡平野郷につくられた郷学含翠堂(がんすいどう)も郷内の有力者の出資によるもので、陽明学、古学、朱子学を教え、明治初年の学制公布まで続いた。1724年に開設した中井甃庵(なかいしゅうあん)の漢学塾の懐徳堂(かいとくどう)も好学の大坂商人らの出資によるものであった。大槻玄沢(おおつきげんたく)門下の橋本宗吉(はしもとそうきち)は大坂で医業を営むとともに蘭学(らんがく)を教え、多くの門下生を集めた。門下に中天游(なかてんゆう)がおり、彼に蘭学を学んだ緒方洪庵(おがたこうあん)は1838年(天保9)に適々斎塾(てきてきさいじゅく)を開いた。医業のかたわら蘭学を教え、約20年間に3000人余の塾生を育成した。国指定史跡の「緒方洪庵旧宅および塾」(大阪市中央区北浜)は1843年に移転したときの建物である。適々斎塾の蘭学を源流とし、1880年(明治13)に発足した府立大阪医学校は、大阪医科大学、大阪帝国大学医学部を経て、現在大阪大学医学部となっている。阪大にはこのほか理、工、法、文、経、歯、薬、基礎工学、人間科学、外国語の学部があり、千里丘陵に立地する。このほか国立大学に大阪教育大学、公立大学に大阪府立大学、大阪市立大学がある。私立大学には、関西法律学校を前身とする関西大学のほか、近畿大学など、総計54校、また短期大学31校(2012)があり、このほか多くの高専、高校が整備されている。大学の傾向としては、多種多様化したなかでも、商、経、工学系など実学的大学が多い。
マスコミも西日本の中枢として重要な地位を占めている。1876年(明治9)創刊の『大阪日報』は1888年『大阪毎日新聞』となり、『朝日新聞』は1879年に大阪で創刊したのに始まる。『産経新聞』も1933年(昭和8)大阪で創刊された『日本工業新聞』を前身とする。現在ではこのほか『読売新聞』『日本経済新聞』などが大阪に本社を置いている。このほか『大阪新聞』などの地元新聞やスポーツ新聞などがあり、総発行部数約405万部(2006)に上り、東京都に次いでいる。
放送面は、日本放送協会(NHK)大阪放送局が1925年(大正14)ラジオ放送したのに始まる。民間放送には毎日放送、朝日放送、関西テレビ、読売テレビ、テレビ大阪などがある。
文化施設としての公民館、図書館、博物館、美術館などは、大阪市を中心に各衛星都市にみられる。1996年(平成8)には東大阪市に府立中央図書館が開館した。「大阪市」の項に記述するもののほか、万国博覧会場跡の記念公園内の国立民族学博物館、大阪府立中央図書館国際児童文学館、大阪日本民芸館や、豊中市の日本民家集落博物館、池田市の逸翁美術館(いつおうびじゅつかん)、堺市博物館、泉北考古資料館(泉北すえむら資料館に名称変更。2016年閉館)、忠岡(ただおか)町の正木美術館、和泉(いずみ)市の久保惣記念美術館(くぼそうきねんびじゅつかん)、箕面市の箕面公園昆虫館、河南(かなん)町の大阪府立近つ飛鳥博物館などがある。
[位野木壽一・安井 司]
府民の生活文化に関しては、昭和の初期までは摂河泉の旧国ごとに、その自然環境と歴史を背景にして、食住の生活、民俗芸能、伝説や文化遺産、特産物などに地域色を色濃くみせていたが、第二次世界大戦中の経済統制や戦後の都市化の進展で生活文化の近代化と画一化が急激に進み、地方色は薄れてきた。そのなかにも文化の伝統は根強く息づいている。ここではそれらにつき、大阪市域、北摂地域、河内地域、和泉地域の4地域に分けて記す。
(1)大阪市域 古代難波宮(なにわのみや)と難波津、中世石山本願寺の寺内町、近世大坂城下町としての商都、さらに近代商工業都市となった大阪市は、生活文化もそれらの文化の累積のうえに成り立っている。なかでも今日に生きているものは、江戸期の浪華商人(なにわしょうにん)の活躍と、そこから生まれた町人文化である。浪華商人のルーツは、豊臣(とよとみ)時代の町屋(まちや)の形成の際に誘致した堺商人と、江戸初期に移住した京伏見商人(ふしみしょうにん)とからなり、その後近江商人(おうみしょうにん)その他各国の商人の融合で上方文化と風習を生み出した。都心部の旧大坂三郷には船場(せんば)の方形型町割、下船場の長方形型の京町割が残っている。商家の食住の生活にも、「大阪市」の項に述べるように、土蔵造りの中二階、奥行の深いいわゆる鰻(うなぎ)住居で、表には格子戸(こうしど)と屋号入りののれんをかける。のれんは商家の信用のシンボルとして誇ってきた。食生活は質素に、倹約と勤勉を旨としてきた。西鶴(さいかく)の『日本永代蔵』にも「金銀を神仏」と崇(あが)める風潮は、「現世利益(げんせりやく)」の社寺詣(まい)りや祭礼を盛んにし、また縁起をかつぐ気風をも生み出した。商家の神棚には京伏見の稲荷(いなり)を祀(まつ)り、年中行事の正月明けは、十日戎(とおかえびす)に始まり、福笹(ふくざさ)を求めて店頭に飾った。夏の天満天神祭(てんまてんじんまつり)や陶器祭、冬の神農祭(薬種神)などの祭礼も商売繁盛を祈念しての祭りが多い。縁起をかつぐ風習も、ミナミの道頓堀(どうとんぼり)に架かる「戎橋(えびすばし)」は、もと「操(あやつ)り橋」であったものが、南の今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)への参詣(さんけい)通路に架かるところから戎橋となり、その西に架かる「大黒橋」も、もと「難波橋」が、戎、大黒の二福神にあやかって並称されるようになったもの。大阪名産の粟おこし(あわおこし)は、もと糒(ほしいい)を原料としたといわれ、塩こんぶやかまぼこ類は生活の実用性から生まれたものである。四天王寺の聖霊会舞楽(しょうりょうえぶがく)と住吉大社の住吉の御田植(おんだうえ)はともに国の重要無形民俗文化財に指定されている。
(2)北摂地域 北摂山地と山麓(さんろく)平野部からなるこの地域は、中世以来山地は山岳信仰の対象に、平野は京都に隣接して京文化の影響を受けてきた。山地の東、高槻市の奥山にある天台宗神峰山寺(かぶざんじ)は8世紀に開成皇子(光仁天皇の皇子)の開基と伝えられ、箕面の山腹にある勝尾寺(かつおじ)とともに名刹(めいさつ)として知られる。さらに西にある妙見(みょうけん)山上には日蓮宗(にちれんしゅう)の関西での拠点である妙見堂が祀られている。本堂は中世末に城主能勢頼次(のせよりつぐ)が守護仏北辰妙見大菩薩(ほくしんみょうけんだいぼさつ)を祀ったもので、当時領内の真言宗の領民を強制的に日蓮宗に改宗させたところから、「イヤイヤ法華(ほっけ)」と悪評されたが、のちに妙見参りの盛んになるにつれ、他宗の参詣人も一時日蓮宗徒となる「百日法華」の風習が行われた。山間の河谷や小盆地は、大阪地方の小秘境地をなす。茨木市の千提寺(せんだいじ)や下音羽(しもおとわ)はキリシタン大名高山右近(たかやまうこん)の治下にあって、領民のなかにはキリスト教を信奉する者もおり、同教弾圧下にも「隠れキリシタン」として、仏教徒を装いながら厨子(ずし)にキリスト像を秘蔵してきた。妙見山の北にある能勢の小盆地は、この山地の代表的山村で、寒冷地のため第二次世界大戦前まで「大阪の北海道」といわれた。民家の形式も、屋根はかや葺(ぶ)き、屋上には千木(ちぎ)が棟飾りとして並ぶ。多くは入母屋(いりもや)型ながら入口は妻入りで、内部の一方は土間で農具と山仕事の用具、奥に厩(うまや)とへっつい(かまど)があり、片方に座敷と納戸(なんど)、台所が並ぶ。丹波(たんば)高原一帯にみられる形式である。特産として、近世以来「能勢の三白、三黒」といわれ、米、白酒、寒天の三白、炭、栗(くり)、黒牛の三黒が特産であった。米は棚田式水田で栽培され、長谷(ながたに)地区では灌漑のため山の傾斜面に横穴式井戸(俗称がま)を掘った。
平野部は山麓に西国街道(さいごくかいどう)(古代の山陽道)が通り、沿道付近には京寄りから、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)を祀る水無瀬神宮(みなせじんぐう)(島本町)、歌人伊勢(いせ)の隠棲(いんせい)した伊勢寺や能因法師塚(高槻(たかつき)市)、大陸渡来の呉織(くれはとり)、穴(綾)織(あやはとり)の工人を祀る呉服神社(くれはじんじゃ)、伊居太神社(いけだじんじゃ)(池田市)などがある。
民家は、近世の西国街道の芥川宿(あくたがわしゅく)や郡山宿(こおりやましゅく)(本陣は国指定史跡)など街村に特色のある京風のべんがら塗りの家屋がみられる。池田市の愛宕火祭(あたごひまつり)は、8月24日夜五月山(さつきやま)山腹に「大」と「大一」の火文字を現し、その火を大松明(おおたいまつ)につけて、鉦(かね)を鳴らして街中を走り、火除(ひよ)け祈願をする祭りで、「がんがら火」ともいう。京の大文字の送り火に似た祭りである。
(3)河内地域 河内は大和国(やまとのくに)に隣接し、生活文化にも大和と深い関係をもってきた地域である。河内平野の北部は、近世中期大和川の付け替えで干拓新田となった低湿地帯で、水にかかわる歴史と伝説と生活を生んできた。集落は昔から洪水対策として、微高地の自然堤防を利用した堤防集落が多い。民家は、盛り土の上に母屋、納屋をつくり、母屋に続いて石積みの高い段蔵(だぐら/だんぐら)とよぶ蔵を設けている。段蔵は二階式にし、下には米、みそなどを備蓄し、上は蔵座敷(くらざしき)として貴重な家財を置き避難所としてきた。収穫した稲や特産の蓮根(れんこん)の運搬には水路を田舟(たぶね)で行き来し、ハス田での蓮根掘りには田下駄(俗称ナンバ)を用いた。
河内平野の南部と二上(にじょう)山麓一帯は、大和とともに、日本の先史・古代史の舞台であった。天皇陵の多い古市古墳群(ふるいちこふんぐん)には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御魂(みたま)が白鳥となって飛来した神話にまつわる白鳥御陵(日本武尊陵、前の山古墳が指定される)と白鳥神社(以上、羽曳野(はびきの)市)がある。二上山麓は大和の飛鳥(あすか)に対して「近つ飛鳥」とよばれ、聖徳太子御廟(ごびょう)のある叡福寺(えいふくじ)(上の太子、太子町)がある。竹内街道(たけのうちかいどう)沿いの野中寺(やちゅうじ)(中の太子、羽曳野市)や勝軍寺(しょうぐんじ)(下の太子、八尾市)とともに「河内三太子」とよばれ民間の太子信仰の中心となっている。
藤井寺市の道明寺は、菅原道真(すがわらのみちざね)の祖先土師(はじ)氏の氏寺で、尼僧のつくる「道明寺糒(ほしい)」の名産がある。また隣接する道明寺天満宮は菅公の命日(3月25日)には菜種御供(なたねごく)の行事があり、菜種色の団子を供えてのち、厄除(やくよ)けとして参詣人に配る風習がある。
南部河内の集落には条里制地割に沿う条里集落が残り、民家には大和棟の家がみられる。大和棟は急勾配(きゅうこうばい)の切妻の屋根で、かや葺きの両端には2列の丸瓦(まるがわら)、屋上は大雁振瓦(がんぶりがわら)を置き優雅な中国大陸風の風情で、大和地方からこの地に分布する。富田林市や八尾市久宝寺(きゅうほうじ)の集落のなかに、周りを堀と竹林の土居(土塁)で囲んだ寺内町がある。戦国時代に真宗の門徒が御坊(ごぼう)を中心に集団で形成した自衛的役割をもった集落である。
河内地方の農家では朝食に茶粥(ちゃがゆ)を食べる風習があったが、これも大和の茶粥の伝播といわれている。枚岡神社(ひらおかじんじゃ)(東大阪市)の正月行事に粥占いがあり、その年の豊凶を占う。また、夏の盆踊りに集落ごとに催される河内音頭(おんど)と踊りは、本来念仏踊を基調としたゆったりとした踊りと語り音頭であった。
(4)和泉地域 和歌山県と境する和泉山脈と河泉丘陵・台地(山手側)、さらに海岸平野(浜側)はそれぞれの特色をもちつつ、関連した生活文化圏をつくっている。山手側の和泉山脈は山岳信仰と仏教の習合によって成立した修験道(しゅげんどう)の霊場となった所である。奈良時代役小角(えんのおづぬ)の開祖という葛木山(葛城山)(かつらぎさん)はいまの金剛山(こんごうさん)をさし、それに連なる和泉の山々には法華経(ほけきょう)二十八品(ぽん)にかたどった葛城二十八宿の行者堂が所々に設けられた。なかでも犬鳴山(いぬなきさん)七宝滝寺(しっぽうりゅうじ)、牛滝山(うしたきさん)大威徳寺、岩湧(いわわき)山の岩湧寺などには、壮大な堂塔のほかに行者の滝や行者場があり、修験者のみならず、いまも民間信仰の対象となっている。
丘陵・台地は国内有数の溜池(ためいけ)の多い地帯である。雨が少なく、小河川のみのこの地域では、水田の灌漑水は古くから溜池や湧泉(ゆうせん)に頼ってきた。記紀にある日本最古の溜池の高石池、茅渟池(ちぬいけ)のほか、奈良時代に行基(ぎょうき)の築造した久米田池、光明皇后(こうみょうこうごう)ゆかりの光明池など溜池に関する記録、伝承が多い。また湧泉に対する水の信仰も深く、和泉(いずみ)府中(ふちゅう)(国府所在地)の「和泉(にぎいずみ)の井」が国名の起源になったことは有名で、現在泉井上神社(いずみいのうえじんじゃ)に水の神として祀られている。このほか和泉市の「葛葉(くずのは)の清水」や「桑原(くわばら)の井」も世に知られている。ことに後者は井中に雷神を閉じ込めた伝説をもち、雷除けのクワバラの呪文(じゅもん)はここに由来するとの伝承がある。干魃(かんばつ)の際の雨乞(あまご)い行事は、かつては前出の山々の寺院で行われるほか、村々の神社の境内でも、雨乞いの「こおどり」(鬼面、天狗面(てんぐめん)をつけ太鼓、鉦(かね)、音頭にあわせて祈りながら踊る)が盛んに行われた。現在残るものとしては、桜井神社(堺市)で行われる「上神谷のこおどり(にわだにのこおどり)」が有名で、国の選択無形民俗文化財に指定されている。山手の台地を通る熊野街道は紀州熊野三山参りの道で、平安末期の往還は「蟻(あり)の熊野詣」といわれる盛況を呈した。道中九十九王子神社が設けられ、和泉国にも堺王子、厩戸王子(うまやどおうじ)などの王子神社が置かれ、そこに布施屋(ふせや)や「佐野の市(いち)」などの集落が生じた。
浜側は、堺をはじめ紀州街道沿いに集落が発達している。堺の街並みは往時の環濠(かんごう)都市のおもかげを一部とどめている。富商の多かった堺の民家は「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」に対して「堺の建て倒れ」といわれるほど建築に凝った。本瓦葺きの屋根に土蔵壁と袖壁(そでかべ)をもつ中二階、「おだれ」(軒先)のある重厚な構造で、国の重要文化財指定の建築物もみられる。本瓦葺きの屋根をもつ民家は、堺のみでなく紀州沿道の旧城下町岸和田やその他の町々や漁村また山手側の農村の旧家にも多くみられ、これが泉州の民家の特色となっている。
泉州の祭りは、秋祭を主に、旧町村の氏神を中心に行われ、若者たちがふとん太鼓を担ぐ祭りと、だんじりを曳(ひ)く祭りの2様式が多くみられる。なかでも岸和田市の地車祭(だんじりまつり)(9月)は豪快さで知られる。また堺市の「堺まつり」(10月第3日曜、あるいは土曜・日曜)は南蛮行列を連ねて往年の南蛮文化を誇る祭りとしてにぎわう。
[位野木壽一・安井 司]
信州の本多善光(ほんだぜんこう)が、崇神排仏の争いから堀江(大阪市西区)の「阿弥陀池(あみだいけ)」に捨てられた百済(くだら)伝来の仏像を拾い上げ、郷里の長野に祀(まつ)った。それが善光寺の起源と『善光寺本地(ほんじ)』に伝えている。淀川右岸の江口には遊女の里があった。江口の遊女と西行法師(さいぎょうほうし)とのかかわりあいは『撰集抄(せんじゅうしょう)』『古事談』などにみえる。それをもとにしたのが世阿弥(ぜあみ)の謡曲『江口』である。「茨木童子(いばらきのどうじ)」は茨木の水尾(みずお)の生まれで、人の血の味を知ってから鬼形となり、酒呑童子(しゅてんどうじ)の片腕として悪名を天下にとどろかせたという。能勢(のせ)町大里には「名月姫」の屋敷跡がある。能勢家包(いえかね)に嫁いだ姫を見そめた平清盛(たいらのきよもり)が側室にしようとしたが、輿(こし)が名月峠に差しかかったとき姫は自害し、貞節を守ったという。淀川下流の三国(みくに)の巌氏(いわし)の碑は、「長柄橋(ながらばし)の人柱」の冥福(めいふく)を祈って建てられたものである。人柱になるのは母子が多いが、この橋の人柱は男である。門真(かどま)市の淀川にある茨田の堤(まんだのつつみ)の人柱も、「武蔵(むさし)の強頸(こわくび)」とよぶ男だった。もう1人、茨田の連(むらじ)袗子(ころもこ)も人柱に選ばれたが、川の神のお告げを疑い、試しにひさごを水に浮かべた。が、沈まずに流れたのを見て人柱にならなかったという。和泉市の「葛葉(くずのは)」は信太妻(しのだづま)ともよばれる異類婚姻譚(たん)である。この伝説を取り入れたのが竹田出雲(たけだいずも)の浄瑠璃(じょうるり)『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』である。説経節や謡曲『弱法師(よろぼし)』によって親しまれた「俊徳丸」も継子(ままこ)伝説で、天王寺(てんのうじ)が主要な舞台になっている。観世元雅(かんぜもとまさ)作の謡曲が成立する以前、語り物が先行していたらしい。『神道集』に摂津「芦刈明神事(あしかりみょうじんじ)」の本地物語がある。貧しさのゆえに別れた妻に未練があり、探し当てたところ、妻は長者の妻になっていた。芦売りに身を落としていた夫は恥ずかしさの極みに息絶えたという。この物語が「芦刈」の伝説として東大阪市日下(くさか)に根づいた。謡曲『芦刈』はこの伝説によるものという。また、「呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)」が堺の納屋衆(なやしゅう)とよばれた貿易商だったことが『太閤記(たいこうき)』にみえている。珍貴な品を献上して秀吉の寵(ちょう)を得たが、居宅に贅(ぜい)を尽くしたかどで怒りを買い、海外に脱出した。その後、カンボジア国王に信任されて活躍したと伝えられる。
[武田静澄]
『牧村史陽著『大阪ガイド』(1961・東京法令出版)』▽『大阪自然科学研究会編『大阪の自然』(1966・六月社)』▽『『大阪百年史』(1968・大阪府)』▽『大阪府教育委員会編『大阪の文化財』(1970・大阪府)』▽『大阪高等学校地理研究会編『大阪――その風土と生活』(1973・二宮書店)』▽『日本地誌研究所編『日本地誌15 大阪府・和歌山県』(1974・二宮書店)』▽『『大阪府史』1~7巻、別巻(1978~1991・大阪府)』▽『井上薫編『大阪の歴史』(1979・創元社)』▽『『角川日本地名大辞典 大阪府』(1983・角川書店)』▽『『日本歴史地名大系28 大阪府の地名』全2冊(1986・平凡社)』▽『津田秀夫責任編集『図説 大阪府の歴史』(1990・河出書房新社)』▽『藤本篤他著『大阪府の歴史』(1996・山川出版社)』▽『平山輝男他編『大阪府のことば』(1997・明治書院)』