デジタル大辞泉 「清」の意味・読み・例文・類語
せい【清】[漢字項目]
[学習漢字]4年
〈セイ〉
1 水がきよらかに澄みきる。「清水・清濁・清流・
2 けがれがなくさっぱりしている。すがすがしい。「清栄・清潔・清純・清浄・清新・
3 心や行いがきよく正しい。「清貧・清廉」
4 払いきよめる。きれいにかたづける。「清算・清掃/粛清」
〈ショウ〉きよらか。「清浄」
〈シン〉中国の王朝名。「清朝/日清」
[名のり]きよ・きよし・すが・すみ
[難読]
中国の東北(満州)地方から興った満州族(漢人,漢族に対して満人,満族とよばれる)の王朝。1616-1912年。はじめ国号を後金と称し,1636年(崇徳1)に清と改めた。東北を統一した後,44年(順治1)長城を越えて中国本土に入って国都を瀋陽から北京にうつし,明朝滅亡の後を継いで全中国を統治する征服王朝となった。44年万里の長城の東端にある〈山海関〉を通って中国本土に進入したので,それ以前の東北統治時代を〈入関前〉,それ以後を〈入関後〉と時代区分している。1912年2月の宣統帝退位による清朝滅亡後は中華民国となったので,これが中国史における最後の王朝である。
満州族は,東北の東部山地を原住地とするツングース語系の民族で,かつて12世紀に金朝を建てた女真族の後裔である。明代には女直(じよちよく)とよばれ,長春,ハルビン(哈爾浜)一帯に住む海西(かいせい)女直,遼陽の東方山地の建州女直,その東北方奥地である沿海州一帯に住む野人(やじん)女直の三大部にわかれ,それぞれ明朝の間接的統制を受けていた。清朝の創始者である太祖ヌルハチ(弩爾哈斉,奴児哈赤)は,姓をアイシンギョロ(愛新覚羅(あいしんかくら))という建州女直の名族の出身であった。16世紀末から17世紀初期にかけての満州族は,山間部や河川沿岸にひらけた小盆地に分散して住み,狩猟,採集に漁労,農耕をまじえた半原始的な経済で生活をささえる一方,採集した人参,毛皮,真珠などの特産品を市場(開原と撫順(ぶじゆん)にあった)を通して明に輸出し,代りに明からは織物,穀類を輸入する商業が盛んになり,こういう経済や商業の発達につれて,満州族の階層分化が進み,その社会はしだいに混乱し解体しつつあった。加えて明朝の女直対策もこのころにはしだいに弛緩し,これが満州族内部の混乱をいっそう激しくした。ヌルハチが挙兵した当時,満州族の社会はいわば〈戦国時代〉の状況をしめしていたのである。
ヌルハチが挙兵したのは1616年(天命1),明朝では神宗の万暦44年のことである。挙兵の地は,撫順の東方100km,蘇子河畔ヘトアラ(興京)であって,国号を後金と称した。ついで19年,明は討伐のため大軍を動員したが,ヌルハチは得意の機動戦でこれをうち破った。これがサルフの戦で,ヌルハチにとって国運をかけた天下分け目の戦いであった。大勝した勢いに乗じて,ヌルハチは南方平野に進出し,数年のうちに東北のほぼ全域を制圧し,25年には都を瀋陽にうつした。このとき,平野部に移住した満州族は,一説によると40万から50万人といわれるが,同時に満州族はその数倍にのぼる漢人を統治することになった。これは後金にとって初めての経験であった。翌26年,ヌルハチは明の拠点である寧遠城を攻め,明軍の火器(鉄砲,大砲)に初めて敗れた。同年の彼の死は,この時の負傷が原因であったといわれる。
後を継いだ太宗ホンタイジ(皇太極)は,初め兄,従兄らとともに,4人の共同統治の形をとったが,36年(崇徳1),単独でハンおよび皇帝の位につき,国号を〈大清〉と改めた。その前年,彼は内モンゴルのチャハル部を圧服して大元伝国の玉璽(ぎよくじ)を入手していたから,これによって満・蒙・漢3族のハンおよび皇帝の位を一身で兼ねあわせたことになる。清朝権力の基礎である八旗制度は,もともと狩猟の方式であり,同時に戦闘体制でもあるが,それはまた満州族の政治・社会体制でもあった。八旗の基本単位はニル(牛彔。満州語で〈矢〉の意)とよばれ,騎馬兵10人で組織され,これに雑役,農耕を担当する壮丁300人が所属する。1旗は25ニル,騎馬兵250人で組織される。皇帝が旗主である黄旗を最上位に,紅,白,藍の4旗とその各色の旗を縁どりした4旗で,黄色2旗をのぞく6旗は,親王すなわちヌルハチ一族の子弟が旗主となり,それぞれ総管大臣1人,佐管大臣2人を置いた。各旗には旗地が配分された。ホンタイジの時代には,満州八旗のほかにモンゴル八旗,漢軍八旗が増設されてあわせて24旗となったが,モンゴルと漢軍の16旗は皇帝に直属した。
ホンタイジは皇帝権力を強化するためもあって,漢人重視の政策をとり,八旗制度とは別に,漢人統治機構として内三院,六部,都察院などの中国式官僚制度を取り入れた。内三院は初め文館とよぶ簡単なものを国史院,秘書院,宏文院の3院に拡張したもので,入関後,中国式そのままに内閣と翰林院に改めた。亡命,投降する漢人や明兵も多くなり,ホンタイジは有能な漢人官僚洪承疇(こうしようちゆう)らや火器をたずさえて束降した明兵をわざわざ天祐軍,天助軍と名づけて優遇したが,これは清にとって大きな戦力となった。また華北に侵入した八旗兵が,漢人農民を大量に捕虜として連れ帰る場合もあった。こうしてホンタイジ時代の清朝では,満州族を支配貴族とする満・漢二重体制の骨組みがすでにでき,満州族の漢族統治の経験もある程度つみ重ねられていたのである。
モンゴルを制圧したほか,2度にわたる朝鮮出兵で李朝を屈服させ藩属国としたホンタイジは,明朝とのひきつづく戦争状態という最後の課題を未解決で残したまま1643年に没し,その子福臨が即位した。世祖順治帝である。ただ順治帝は6歳の幼帝であったので,叔父ドルゴンが摂政となり,政治,軍事の事実上のリーダーとして権力をにぎった。彼は皇帝継承時の政治的不安定を乗り切って満州族の統一を維持し,人口増と凶作による経済的危機に対処し,あわせて対明関係の打開をはかるべく,八旗の主力を率いて出兵を断行した。このとき明朝では,政治的腐敗,経済的疲弊が頂点に達していた。20年代に勃発した李自成の反乱は40年代に入っていよいよ勢いを増し,44年(崇禎17)には反乱軍が北京城を占拠し,毅宗崇禎帝が自殺して明朝が滅亡するという事態が発生した。この非常事態に直面して,山海関を固守していた明将呉三桂(ごさんけい)は,李自成討滅のため,みずから山海関を開いてドルゴンの清軍を関内に引き入れたのである。
戦わずして関内に入った清軍は,李自成を追って北京に入り,順治帝を瀋陽から迎えて,清朝が明朝をつぐ正統の王朝である旨を宣言した。崇禎帝の死後,明側では,南京の福王が帝位を継いだが,翌年には南下してきた清軍に捕殺され,続いて福建で唐王,浙江で魯王が立ったが,いずれも長くは続かなかった。最後に広西で桂王(永明王)が立ったが呉三桂の清軍に追われて雲南からビルマに逃げ,1661年(永暦15)捕えられて呉に引き渡され,翌年殺された。こうして18年にわたる南明諸王の明朝復興運動は成功することなく終わった。
順治帝の死後,61年(順治18)その子聖祖康煕帝が即位した。幼帝であったので4人の輔政大臣すなわち摂政が置かれた。なかでもオボイ(鰲拝)は一時満人優位の独裁的権勢をほこった。69年(康煕8)康煕帝はクーデタでこれを倒し,政権をとりもどした。しかし73年には三藩の乱が勃発して,清朝は再び危機にみまわれた。三藩は平南王尚可喜,靖南王耿精忠,平西王呉三桂であって,南明征討の功によりそれぞれ広東,福建,雲南に封ぜられ,とりわけ呉三桂は親王に昇進していた。三藩は多額の歳費を与えられて直属の漢人部隊をかかえ,その地方の官僚人事を左右するなど,半ば独立王国の権勢をほしいままにしていた。この年尚可喜が老病を理由に東北への引退を朝廷に要請し,康煕帝はこれを機に三藩の撤去を命じたことから反乱が起こった。乱は南方8省におよび,加えて陝西の王輔臣(?-1681)の乱も起こるなど,一時清朝も苦境に立たされた。
やがて耿精忠,尚可喜が下り,78年呉三桂が死んで孫の呉世璠(ごせいばん)が後を継いだころから清朝が勢いをもりかえし,81年ようやく雲南を平定しおわった。ついで83年には,長年台湾に拠って抵抗をつづけていた鄭氏一族(鄭成功)も下り,ここに清朝の支配体制の基礎が確立したのである。
これより清朝は,聖祖康煕帝,世宗雍正帝,高宗乾隆帝の3代にわたり,18世紀末まで最盛期を迎える。清朝は満州族の征服国家であるから,一面では八旗制度のように満州族特有の制度をもち,その維持につとめたが,他面明朝の制度を大幅に継承する二重体制の国家であった。
まず軍制をみると,入関後中国本土に移駐した八旗兵はおよそ20万,うち禁旅八旗10万は首都北京の周辺に旗地を与えられて駐屯し,残りの駐防八旗は各地に分駐した。その後八旗が人口の増加と漢人経済の影響を受けて貧困化したことは日本徳川時代の旗本と同様で,八旗は貧困化すると同時に弱体化した。八旗とは別に緑旗(緑営)とよばれる60万から80万の漢人部隊が編成されて地方の治安維持や雑役にあたった。つぎに政治,行政では満州族特有の最高機関として入関前から議政王大臣という会議があったが,康煕末年には有名無実となり,雍正時代(1723-35)からは軍機処が新設され,皇帝のもと数名の軍機大臣による軍事,政治を決する最高政務機関となった。その他満州族官庁としては,皇族,旗人を管理する宗人府,内務府,モンゴル,回部,チベットなど藩部を管轄する理藩院などがある。明制をうけついだ中国式官庁に内閣,六部,都察院,翰林院などがある。ただ官員の定数は満人・漢人併用の政策がとられた。たとえば六部の長官尚書は満・漢各1名計2名,次官の侍郎は満・漢各2名計4名のごとくである。満州語,漢語の公文書翻訳が重要な職務となり,専門の部局が置かれたことも清制の特色である。
中国本土は18省に分かれ,長官として総督,巡撫(じゆんぶ)が置かれた。総督は1~2省に1名,巡撫は1省に1名であるが,その管轄地域と職務は重複しており,しかもそれぞれ別個に皇帝に直属していた。省には省長ともいうべき布政使(行政)・按察使(あんさつし)(司法)が置かれた。省は府に,府は州・県に分かれ,それぞれ知事が置かれた。この点,日本の府と県が同格の行政区であるのとは異なっている。州・県の知事は,兵権をのぞき,最末端の行政・司法の全権をにぎって人民に直接のぞむわけで,いわば地域の小皇帝ともいうべき権力者である。このほか省に学政(教育),省と府の中間に数名の道員(道台),塩政,税関監督,織造など特殊な官職もあった。東北は3省に分かれて東三省とよばれ,将軍による軍政がしかれた。モンゴル,回部,チベットの藩部には将軍,辦事大臣らが駐在した。
財政は,基本的には明制をうけついでいるが,ただ明末の重税を廃して整理された。租税は地丁銀・塩課(塩の専売収入)・関税(内地関税)の3本柱からなる。なかでも地丁銀は80%台から18世紀でも70%台を占め,最重要な租税であった。初め明制をうけて地銀・丁銀に分かれていたが,雍正年間に丁銀を地銀に併合して地丁銀すなわち土地税に一本化した。18世紀後半の収入は3税に雑税と捐輸(一種の売官収入)あわせてほぼ4800万両(テール),これが中央政府の収入であり,地方の収入をあわせるとその倍8000万両と推定される。ただ租税の徴収にあたってはさまざまの付加税を徴収され,それが官僚によって着服されて大きな弊害となった。雍正帝は正規の俸給のほかに手当ともいうべき養廉銀(ようれんぎん)を官僚に支給して弊害を改めようとしたが,ほとんど効果はみられなかったようである。三藩の乱平定後,政府の重い負担となっていた軍事費が大幅に減り,加えて宮廷費の節約につとめたこともあって,康煕年代の後半から財政に余裕ができ,康煕末で800万両,1781年(乾隆46)には7800万両の余剰金が生じたほか,康煕年間1回,乾隆年間4回の全国地丁銀免除を実施したが,中国王朝にはめずらしい壮挙として,両皇帝の自慢のたねともなった。しかし乾隆末年には税収の増加がとどこおる反面,ふたたび乾隆帝の外征費が増加し,19世紀になると清朝は一転して財政難に苦しむようになった。
つぎに3帝時代の内政面での事績をみると,康煕帝の事績としては,三藩の乱の平定のほかに,黄河,大運河の大がかりな改修,その視察をかねての6回の江南巡幸,地丁銀の全国的免除,明末の遺老を推挙させる博学鴻儒の制(博学鴻詞科),多数の学者を動員した《明史》《康煕字典》はじめ《佩文(はいぶん)韻府》《淵鑑類函》など大部の書物の編纂がある。いずれも清朝の威信を天下に示威すると同時に,漢人の反満感情をやわらげて体制に取り込む懐柔策であった。しかし反面,容易に鎮まらない反満思想に対しては容赦のない弾圧を下し,明史の獄,南山集の獄といった〈文字(もんじ)の獄〉が起こった。雍正時代に入っても呂留良の事件があり,雍正帝はみずから《大義覚迷録》なる反論すら出版している。雍正帝の事績としては,前述した軍機処の設置,養廉銀の支給,地丁銀制の成立のほか,厳しい官僚の綱紀粛正を断行し,賤民の解放を行い,そして少数民族の半自治的行政制度である土司を県にかえる〈改土帰流〉(流とは流官すなわち県知事のこと)などがあげられる。雍正帝はまた,これまで定制のなかった皇位継承法について,皇太子を立てずに,後継皇帝を秘密裏に前帝が指名しておく〈皇帝密建の法〉を定めた。以後の皇帝はこの方法で指名された。乾隆帝の事績である地丁銀の全免4回,江南への巡幸6回,博学鴻詞の推挙制,そして《四庫全書》という8万巻の大叢書の編纂事業など,そのいずれをとっても祖父康煕帝の業績の再版,模倣であり,治世60年で仁宗嘉慶帝へ譲位したのも,祖父の治世を超えないようにとの遠慮からであった。しかし康煕帝にみられた緊張感は,乾隆時代にはもはやなく,政治・財政は放慢となり,官僚の腐敗はすすんで,和珅(わしん)のごとき側近の地位を利用して巨額の私財を蓄積する官僚も出たのである。
つぎに対外関係である。まずロシア人はシベリアを東進して東北に到達し,黒竜江岸のアルバジン(雅克薩)に城塞を築く一方,ロシア使節が順治帝の時代から北京に派遣されて交易を行っていた。康煕帝は出兵してアルバジンのロシア人を撃退し,1689年(康煕28)ネルチンスク条約を結び,ロシアとの国境を定めた。露清の交易については1727年(雍正5)キャフタ条約が結ばれて,19世紀まで続いた。清代,北方天山北路の草原では,ガルダンに率いられたジュンガル部が強盛となり,17世紀末から18世紀にかけて,西のロシア帝国,ジュンガル帝国,東の清帝国と3大帝国がユーラシア大陸にならび覇を競う形勢となった。ガルダンは康煕帝の討伐をうけて敗死したが,後継のツェワン・アラプタン(1697-1727),その死後はガルダン・ツェレン(?-1745)とジュンガルの勢力は衰えず,清朝に対して降・反をくりかえした。最後にアムルサナが乾隆帝の派遣した清兵に追われ,ロシア領に逃げこんで病死するにおよんで,本拠地の天山北路はもとより,天山南路,青海,チベットから西方のトルキスタンまで清朝の勢力圏に入り,中国王朝としては史上最大の版図となった。1759年(乾隆24)のことである。乾隆帝はこのほかビルマ,ネパール,ベトナムに遠征軍を送ったのみならず,貴州・四川・湖南省境のミヤオ(苗)族,四川北西部の金川土司の諸反乱を鎮圧し,台湾にも出兵した。この征討戦を〈十全の武功〉,みずからを〈十全老人〉と名づけて得意であった。
イエズス会士の中国派遣は,マテオ・リッチの後もアダム・シャール,フェルビースト(1623-88)と続き,とりわけフェルビーストは康煕帝に〈じいさん〉と愛称されるほど信任され,彼が鋳造した数百門の火砲が三藩の乱の戦闘に大きな効力を発揮した。イエズス会士は北京に教会を与えられ,観象台(天文台)を設け,天文学,暦学はじめ地理学,医学その他自然科学の知識で清朝に貢献したが,最終の目的であった皇帝の教化については結局成功しなかった。その後伝道方法をめぐってローマ教皇との間に〈典礼問題〉とよばれる紛糾が起こり,雍正帝の時代に清朝はキリスト教の布教を禁止し,以後19世紀まで禁令は続いた。
清代の土地制度をみると,官田・民田とも大筋において明代の制度を継承している。ただ官荘・旗地といった清朝独特の官田があった。民田は祭祀田,義田などの共有地を除いて大部分が私田であり,そこでは分益現物小作料制の地主=小作(佃戸(でんこ))制が最も一般的であったが,華北では自作制が,華中以南では小作制が優勢であるという地域差がみられ,また経済が発達するにつれて綿作など商品作物地帯で小作料の金納化がしだいに広がった。地主のなかでも官僚機構とつながりをもつ郷紳地主は大きな発言力をもち,地方政治においてしばしばボス化する現象がみられ,また地主のなかでも大地主は都市に集中して不在地主化する傾向があった。清代の経済も明代からの発達の継続である。とりわけ清代では商業資本が優勢であって,山西商人,安徽商人のように出身地別,および業種別に帮(パン),行とよばれるギルドを組織し,主要都市には会館,公所といった拠点を設けて活動した。綿業はじめ生糸・絹織物業など多くの手工業部門で商人による問屋制度が広く普及していたが,マニュファクチュアの存在はみとめられるものの,なお微弱な発達段階にとどまったようである。江南が先進的な産業地帯となるとともに,長江(揚子江)上・中流がその食料補給の穀倉地帯となり,首都北京と結んで長江および大運河が商品流通の大動脈となった。通貨では銅銭とならんで銀の使用が普及し,租税の銀納化が一般化した。
18世紀末から19世紀初期にかけて社会の行きづまりが顕在化し,各地に抗租(小作料不納)・抗糧(税金不納)という農民一揆が多発するようになった。嘉慶年間(1796-1820)に勃発した白蓮教の乱は,湖北,四川など4省10余年にわたってつづく大乱となって清朝統治のゆるみを暴露し,また1813年には反徒が宮中に乱入するという天理教の乱が起こって天下をおどろかせた。南方海上では,清初鄭氏の反清運動のため,沿海住民を内地に移住させる遷界令を発し,貿易を禁止する海禁策をとったが,鄭氏が平定されたので1685年(康煕24)海禁を解き,1757年(乾隆22)には海外との貿易を広州1港に制限した。これよりイギリス東インド会社と広東公行を仲介とする広州貿易が開始される。
執筆者:北村 敬直
1840年のアヘン戦争から1912年の清朝滅亡まで中国の近代史の前半にあたる約70年間は,かつてないほどの大変動期である。盛世をうたわれた乾隆時代の終焉とともに勃発した白蓮教の反乱は,清朝支配の基底を確実に動揺させたが,それはなお内乱にとどまったのに対し,アヘン戦争は2000年の歴史を誇る中華帝国の崩壊の出発点となった。専制帝国を維持するための鎖国制度が敗戦の後始末として締結された南京条約によって崩され,中国は世界に向かって開国された。中華思想にささえられた天下国家体制は破綻し,清朝帝国は国際外交関係の舞台に引きずり出されたのである。ただ,南京条約とそれに続く一連の条約は,協定関税,治外法権,片面最恵国条項等にみられるように,不平等関係のもとでの開国の押しつけであった。いわゆる半植民地化の開始である。
開国後10年を経ずして太平天国の蜂起が広西省におこり,10余年にわたって華南,華中を席巻した。それは,南京条約により上海が開港されたための商品流通路の再編にともなう社会変動を直接の契機としたものだったが,専制王朝体制下の広範な人民蜂起を誘発し,清朝支配をほとんどくつがえさんばかりの勢いを示した。太平天国戦争の死者は約2000万人ともいわれるが,熾烈(しれつ)さのほどをうかがうに足ろう。このとき,列強は第2次アヘン戦争をしかけるが,清朝は列強に屈服することにより,その援助を得てようやく太平天国を鎮圧したのである。
この間,清朝権力の中枢で政変が起こり,権力は西太后らの一派に帰した。1861年(咸豊11)のいわゆる辛酉(しんゆう)政変である。この後,若干の経緯を経て西太后は最高権力者となって清末の政局を壟断(ろうだん)するが,彼女の権力基盤のもっとも重要なものは,太平天国鎮圧に功績のあった曾国藩,李鴻章らの洋務派漢人大官僚である。洋務とは外交,貿易,技術導入等,列強と関係することすべてを包括する概念で,第2次アヘン戦争の後始末として締結された北京条約によりさらに従属度を深めた清朝にとって,もっとも重要な政治行為なのであった。洋務を扱う役所として総理各国事務衙門(総理衙門)が新設されるが,この新設衙門が軍機処等の従前の政治機構を超える地位を占めるに至るという事実のなかに,列強と清朝の力関係が如実に反映されていたのである。洋務派は,まず第1に協調妥協策をとって列強の支持を獲得することにおいて,第2に列強からの技術導入に伴う新しい生産力の掌握者として,同治年間(いわゆる中興時期,1862-74)以後,清朝政権の浮沈を左右しうる勢力となった。列強と洋務派の関係は,たとえば李鴻章の江南製造局にみられるように,技師と機械はイギリスにたより,経常費は外国人の管理する上海税関の収入から出されたという一事からもうかがえる。税関を管理する総税務司(その長官はイギリス人の指定席)は総理衙門の下部機構というしくみではあったが,実際にはほとんど独立の機構同然だったから,洋務派は上には公使団,下にはお雇い外国人の双方とうまくやっていかねばならない立場にたっていたのである。
自強を看板にかかげて大々的に遂行された洋務運動は,まず清仏戦争で手痛い打撃を受け,ついで日清戦争(1894-95)の敗戦で決定的に破産した。とりわけ日清敗戦の打撃は甚大で,下関条約に規定された賠償金2億3000万両(テール)(遼東半島還付金をふくむ)は戦前の国庫歳入のほぼ3年分に相当する巨額であった。それだけのものを4年間で支払うには,当然,借款しかなく,イギリス・ドイツ借款団から2億両,ロシア・フランス借款団から1億両の借款を得ることになる。列強の借款供与は清朝を債務奴隷に転落させて,より多くの特権を奪いとろうとしての所為であった。事がらの自然として,中国に貧困を強いた日清賠償金は日本の国庫を潤した。戦前の歳入の4年分に相当する臨時収入を得た日本は,軍備拡張を第一に,金本位制移行等の諸施策を実行したが,ここに東アジアの両国はまったく別の道を歩むことになるのである。
日清戦争後における列強の対華侵略はかつてない激しさを加えた。それぞれに租借地をとり,勢力範囲を決め,鉱山採掘権や鉄道敷設権を奪いとった。そこへ義和団鎮圧のための8ヵ国連合軍の対華戦争である。1901年(光緒27)に結ばれた辛丑(しんちゆう)条約(北京議定書)では,4億5000万両というとてつもない賠償金のみならず,北京とその周辺への外国軍駐留権まで認められた。借款,賠償の元利支払は1905年には歳出の4割に上ったが,まさに辛丑条約によって中国の半植民地化は完成したのである。
この間の変化を社会経済面からみるなら,それは世界市場に組み込まれることの直接的な結果である商品経済,国内市場の発展拡大とそれにもとづく帝国主義列強の中国人民(その主力は農民)からの収奪の強化増大であった。前者については対外貿易額が簡単な指標となる。北京条約以後,開港場の増加,内河航行権,税法上の特権(子口半税でもって釐金(りきん)にかえる)等の権益を獲得したこともあって,対外貿易は急速に伸びはじめ,1890年ごろには輸出入総額約2億両(入超4000万両)に上った。輸出品が茶に代表されるように第1次産業生産品であるのに対し,輸入品のほとんどは機械製品,その大宗である綿糸綿布の輸入高は約4400万両である。この4000余万の数値は開国前の全商品流通額(その大半は米穀)を上まわり,同時期の国庫歳入にほぼ等しい。ゆえに2億両の市場がかつての国内市場と質的に違うものであろうことは容易に推測できようが,下関条約以後,貿易の発展はさらに著しく,1910年には8億4000万両,1913年には10億両と20年あまりで5倍の伸びをみせた。
この間に中国の国内産業の市場の拡大があったことはいうまでもない。1910年の近代産業の生産額は約1億4000万両に達した。しかしその過半は列強の在華企業の生産にかかる。20世紀初頭,1902-13年の間における年平均入超額は約1億3000万両,列強の投下資本に対する利潤,本国送金と在華資産の増加は年平均約1億2000万両,借款賠償の元利支払は年平均約6000万両であった。ゆえに年々約3億両の富が帝国主義列強の収奪により外流していくという条件のもとでの市場拡大であり,商品経済の発展なのであった。したがってその拡大発展は中国社会の相対的貧窮化と表裏をなして進行したのであって,中国近代における秘密結社(会党)の流行,移民,流民の爆発的増加はそのような社会経済的な変化の端的な一表現だったのである。
先進列強の繁栄と中国の貧窮の相関関係をささえる中国の半植民地化という社会基盤そのものから,中国のブルジョア的変革を指向する動きが生まれてくる。そのようなブルジョア・イデオローグが政治舞台に登場してはなばなしい活動を開始した最初のものが,康有為を指導者とする戊戌(ぼじゆつ)変法運動であった。彼ら変法派は,洋務派が中体西用論をとなえて生産技術だけを移入しようとしたのに対し,西洋の社会体制そのものを模倣すべきだとして立憲君主体制への移行を計画した。しかしこの試みは西太后派のまきかえしにあって短期間のうちに失敗する(百日維新)。その直後,20世紀の人民闘争の先声をなすかのように,義和団運動が華北一帯を席巻した。この運動の本質は自分たちの生活を守るための〈滅洋〉にあったため,清朝政権内部ではそれを利用して列強と事を構えようとする頑固派と協調第一をくずさぬ洋務派とが分裂した。洋務派の地方大官は〈東南互保〉同盟をむすんで北京朝廷に協力せず,結果は8ヵ国連合軍の勝利,辛丑条約の締結に終わった。西太后は初め頑固派寄りにたち,のちには洋務派にのっかるのだが,このとき以来,清朝は〈洋人の朝廷〉とよばれ〈太上政府〉といわれる列強公使団の奴隷であるとみなされるようになる。
ほとんど崩壊寸前にたちいたった王朝支配体制を建て直すべく,清朝政府は西太后新政とよばれる政治改革に乗り出さざるをえなくなった。この新政の内実の多くはかつての変法運動で提起されたものであったが,西太后をふくめて朝廷の実権派が取り組まざるをえなくなったという点に時代の変化が映し出されていた。もっとも,重要な軍制だけは日清戦争敗北直後に新軍(洋式軍隊)の建設に踏み出していたが,このときには全国の新軍化が計画されたのである。新政の範囲は広く,政治組織,法制,教育制度,商工政策の万般におよぶものだったが,とりわけ衝撃的だったのは,1000余年の歴史をもつ科挙制度の廃止であった。清朝のこの開明政策のもとに,戊戌政変後に海外亡命を余儀なくされた康有為らとは別の君主立憲派グループの活動が盛り上がってくる。
しかし,このときにはすでにブルジョア・イデオローグの急進派,すなわち革命派が重要な政治勢力として登場していた。孫文の興中会はその濫觴(らんしよう)にすぎなかったが,〈洋人の朝廷〉となった満州王朝を倒すことなしに中国の富強は図れないとする認識がかなりの程度に一般化したのである。華興会,日知会,光復会等の諸団体が形成され,弾圧を受けると日本に亡命して革命活動を展開した。日本の東京が革命派の結集地となり,1905年には孫文を総理に中国同盟会が創立された。同盟会は孫文の三民主義をかかげて革命の世論醸成をはかるとともに,会党,新軍兵士にはたらきかけて各地で武装蜂起を繰り返した。新政遂行のための大衆収奪から社会矛盾は激化し,また満州朝廷の立憲制採用が単に皇族貴族の集権策にすぎぬとの認識が広まったまさにそのとき,1911年10月の革命派による武昌蜂起が発動されて成功し,4ヵ月におよぶ曲折を経て翌年2月,宣統皇帝溥儀(ふぎ)が退位して清朝は崩壊した。ここに2000年来の帝制は終焉してアジア最初の共和国の誕生をみたのである。
この時期における社会変化の激しさは,以前の歴史に例をみないものであった。上海,漢口に代表される新しいタイプの都市の誕生がその象徴である。上海は20世紀前半の東アジアにおいてはもっともヨーロッパ的な都市といわれたが,中国市場の外側への最大の窓口として繁栄を誇った。〈冒険家の楽園〉といった好ましくないあだ名,買辧の横行も半植民地の経済中心としては不可避のことであったが,それと裏表の関係で西洋近代文明摂取の窓口ともなったのである。工業,商業はもちろん,新聞雑誌などのジャーナリズム,新型教育機関,娯楽施設や公園集会場といった新しいものがつぎつぎと取り入れられ,衣服はもちろん,ガス,電気,上下水道といった生活面での著しい変化がいろいろな分野で起こっていた。上海で始まった汽船,のちには鉄道が他の諸都市に伝えられ,交通機関の近代化とともに,農村にも,たとえば石油ランプ,マッチ,機械製綿布等が入りこんで生活を変えていった。
生活面もさりながら思想文化の面でも変化は大きかった。思想的には,まず三民主義に代表される民権思想の普及が重要な変化であった。共和革命の成功はその一つの明証である。民権と併行して起こった女権思想(男女平等)はあまり定着したとはいえないのだが,それにしても辛亥革命を境にかの纏足(てんそく)の陋習がほとんど一掃されたことは,もっと評価されてよい。学術面では経学独尊の状況がくずれ,章炳麟(しようへいりん)らの努力で伝統的旧学が国学に改鋳されたことのなかに,一つの新しい発展の方向がみられたのであった。自然科学はほとんど西洋のそれを摂取したにせよ,人文社会科学の分野では旧有の蓄積のうえに立つ新しい体系が模索されたのである。文学面では,社会批判を眼目とする譴責(けんせき)小説の誕生という点に,時代の特徴の先鋭な反映をみることができるが,同時にながく教養の中心であった文言を否定して白話(口語)を用いる動きがかなり大きなものとして出てきたことも評価されるべきである。そしてこれらの諸成果のうえに五・四運動は準備されたのである。
執筆者:狭間 直樹
日中両国間の文化交流は,清代において,その長い歴史の中でも最も重要な質的転換を遂げたといえる。すなわち,同一文化圏内の交流から国家間の交流への移行という構造的な変化が,この時期に発生したのである。
江戸幕府の鎖国政策によって日本船の中国渡航は1635年(寛永12)以来禁止され,江戸時代の日本と中国との交流は長崎出島,対馬,琉球,松前のみを窓口として,1685年(貞享2)の年間銀6000貫を上限とする交易関係に限られていた(定高(さだめだか)貿易法)。しかし,享保期(1716-36)以来,キリスト教にかかわる中国書籍が禁書となったことを例外として,中国書(漢訳洋書を含む)が数多く輸入され,日本が中国文化の圧倒的な影響下に置かれるという状況は,それまでの歴史と同様であった。とくに,幕府が公認の学問とした朱子学の影響は無視できない。中国を聖人君子の理想国として畏敬する風潮は儒学者のみならず一般の日本人の間にも行き渡った。しかし一方,宋代,明代における経書の恣意的解釈に批判を加えた伊藤仁斎,荻生徂徠らの古学が勃興したのは元禄・享保期(1688-1736)であり,これは清朝の乾隆・嘉慶期(1736-1820)の考証学に先だつものであった。彼らが文化的理想としたのは現実の清朝ではなく古代中国社会であった。さらに,本居宣長が古学の方法論をふまえて,日本古代の文化を再検討する道をひらき,〈大和心〉を主張して〈漢意〉の排撃を試みたのをはじめとする国学の台頭は,長く中国の文化的影響下に置かれてきた日本の自己認識の過程でもあった。ところが,近代西洋のアジア進出が明瞭になった19世紀半ばころから,日中文化交流史上にかつてなかった変化が現れた。1862年(文久2)貿易船千歳丸の上海派遣は,江戸時代において日本側から中国へ出向いた唯一の交流であった(《文久二年上海日記》)。乗船していた高杉晋作,五代才助(友厚)らが眼前にしたのは,アヘン戦争に敗れ,太平天国の乱のただ中にあった中国であり,そしてヨーロッパ列強の強大な軍事力・経済力であった。19世紀半ば以降の日中文化交流は,こうしてさらに広い世界的な交流の中に置かれることによって,2文化間で完結していたそれまでの関係から,より重層的なものに変化していった。また,それゆえに日中交流の性格は屈折したものになり,日本人の中国文化に対する見方は,かつての尊敬から蔑視へと変わった。
1871年に日清修好条規が締結されて,近代的な国交が樹立されたことは,隋・唐以来続いてきた日中関係(冊封・朝貢関係)が崩壊したという意味において画期的なものであった。日中間の文化交流にも,従来の文化的な優劣(華夷)意識に加えて政治的な性格が色濃く反映されるようになった。そして,そのことはヨーロッパ列強の東漸に対して,どのように受容あるいは反発するかという,すぐれて思想的・政治的な課題の相違として現れた。すなわち,アジアを〈半開〉と考えた福沢諭吉は,《脱亜論》(1885)と題する論説の中で,アジアを脱して西洋の文明国と進退をともにすることが日本の歩むべき道だと主張した。一方,中国側の認識の変化は,その思想・文化の伝統のゆえに遅々たるものであった。そうしたなかにあって1877年,初代駐日公使何如璋について来日した黄遵憲は,明治初期の日本に起こりつつあった変化を理解しようとした最初の中国人であった。黄遵憲が数年間の滞日経験をもとに書き記した《日本国志》(1887)の中では明治維新が高く評価されており,のちに制度改革を唱えた康有為,梁啓超らの指導した変法運動(戊戌変法)への思想的影響がうかがえる。
1894-95年の日清戦争における清国の敗北によって,中国の知識人の日本認識は一変した。戦後,清朝は体制内改良の道を模索しはじめ,留学生の派遣,日本人教師の招聘,農学や蚕糸業の分野における日本からの技術導入,日本文の翻訳等を相次いで実行,日中文化交流は新たな展開を見せることになった。1896年,日中交流の長い歴史の中ではじめて,13名の中国人留学生が日本に到着して,当時高等師範学校校長であった嘉納治五郎にあずけられた。98年には,中国人の日本留学を奨励する張之洞の《勧学篇》が著された。日本留学は,経費の安さやいわゆる〈同文同種〉の利も誘因となって,1872年(同治11)に開始されていたアメリカ留学の先細りとは対照的に空前のブームとなった。中国人留日学生の総数は1905年に8000人を数えたが,これは世界の留学史上からみても特筆に値する規模である。しかし,まさにこの時期に日本人一般の中国認識も一変し,侮蔑をこめた〈支那〉の呼称が定着した。1901年,〈支那を保全す。支那及び朝鮮の改善を助成す。支那及び朝鮮の時事を討究し実行を期す。国論を喚起す〉の綱領をもつ東亜同文会によって上海に設立された東亜同文書院は,戦前日本における最初の在外文化施設であるが,そうした時代の変化と切り離して考えることはできない。同校は太平洋戦争終戦の年まで存続,その卒業生は実業界,外交界,学界,ジャーナリズムなどにおいて中国と深くかかわった。
洋務運動以来近代西ヨーロッパの文化の移入に努めるようになった中国における洋書の翻訳は,厳復らによって洋書から中国語への直訳の努力が重ねられる一方,日本留学開始5年目を迎えた1900年ころから,留日学生の間に訳書彙編社,教科書訳輯社などの翻訳団体が生まれ,日本語からの重訳もさかんに行われた。〈哲学〉〈経済〉など,日本人による訳語がそのまま中国に移入されて定着,中国語の中に大量の日本語語彙が取り込まれた。こうした洋書の翻訳事情は,清末の日中文化交流が,中国が日本を通じて西洋文化を学ぶという構造をもっていたことを象徴的に物語っていると考えられる。日本文化自体に学ぶべきことを説く留学生が皆無であったわけではないが,例外的な存在であった。
留日中国人学生の間では,思想の啓蒙と革命の宣伝のための雑誌の発行も重要な活動であった。各省留学生の間の雑誌《湖北学生界》《浙江潮》などの論調はしだいに政治化し,1905年8月には,在日留学生を中心として革命派の運動団体である中国同盟会の成立をみた。清朝は,日本政府に革命派の多い私費留学生の取締りを依頼し,これを受けた文部省は,11月2日,〈清国留学生取締規則〉とよばれることになった省令第19号を公布した。留学生は一斉にこれに反発,同盟休校あるいは即時帰国を主張するなどして対抗した。そして,大森海岸における陳天華の抗議自殺を契機に,相当数の学生が帰国し,辛亥革命を成就する原動力となった。以後,清末の留日学生数は減少し,1911年,辛亥革命勃発の報を受けて,留日中国人学生のほとんどが帰国した。中華民国の成立を受けて,日中両国間の文化交流もさらに新たな段階に入った。
執筆者:平野 健一郎
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中国の東北(満州)から興り、明(みん)を継いで中国を支配した満洲族の王朝(1616~1912)。中国史上最後の王朝で、その末期は中国近代史に入る。
[川勝 守]
満洲族は半猟、半牧、半農の生活を営んだツングース系民族で、女真(じょしん)または女直(じょちょく)といわれていた。金(きん)の滅亡(1234)後、元(げん)・明(みん)に服属したが、明では海西(かいせい)、建州(けんしゅう)、野人(やじん)の3部に分かれ、衛所(えいしょ)制が敷かれた。海西、建州は耕牛や漢人労働の利用により、しだいに文化・経済生活を向上させた。17世紀に入ると、建州女直のヌルハチは、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮出兵によって明の統制力が緩んだのを機として、女直諸部を統合し、1616年ハン位(清の太祖)について、国号を金(後金(こうきん))と称した。明は大軍を派遣したが、19年のサルフの戦いに敗れた。ヌルハチは遼東(りょうとう)平野に進出し、瀋陽(しんよう)(奉天府(ほうてんふ))に遷都した。26年ヌルハチが死ぬと、子のホンタイジ(太宗)が位につき、内モンゴルのチャハル部を討ち、「大元伝国(だいげんでんこく)の璽(じ)」を得たので、36年改めて皇帝の位につき、国号を清と称した。同年、朝鮮を完全に屈服させ、その宗主国となった。当時、中国では都市の民変、農村の抗租などの民衆運動が激化し、また朝廷内部の党争が尾を引き、明の支配は揺らいでいた。明から清へ投降する士大夫が多くなり、中国的な行政組織が整備された。1643年、太宗が没し、子の順治帝(じゅんちてい)が幼少で即位すると、睿親王(えいしんのう)ドルゴンが摂政(せっしょう)となり、翌年李自成(りじせい)によって北京(ペキン)が攻略されると、山海関の守将呉三桂(ごさんけい)と交渉し、呉三桂を援助し明皇帝の仇(あだ)に報いるとして、山海関を越え、華北に入った(清の入関)。清の大軍は北京を回復し、李自成を追って華北一帯を制圧した。清は北京に遷都し、明の後を継ぐ中国王朝となった。異民族支配への抵抗は、まず福王、唐王、桂王(けいおう)ら明の皇族、遺臣らによる南明(なんみん)の動きとなったが、大勢を回復することはできなかった。むしろ清の統一への障害は、一つには清初の三大思想家、顧炎武(こえんぶ)、黄宗羲(こうそうぎ)、王船山(おうせんざん)の流れをくむ江南士大夫の反清感情であり、もう一つは平定に功があった呉三桂(平西王、雲南)、尚可喜(しょうかき)(平南王、福建)、耿仲明(こうちゅうめい)(靖南(せいなん)王、広東(カントン))のいわゆる三藩の強大化にあった。1645年、南京(ナンキン)を攻略すると、女真の風習である弁髪を強制したのも、中華の誇り高き江南人士に清への服従を強いる踏絵であった。そのほか機会をとらえては奏銷案(そうしょうあん)(税の未納者を処罰したもの)などの疑獄を構えて反清排満感情を抑圧し、文字の獄、禁書を行った。三藩に対しては、急死した順治帝のあと、8歳で即位した康煕(こうき)帝が成人して親政を始めるや、1673年の撤藩(てっぱん)の議を契機に三藩削除の策を進めた。そのため三藩の乱が起こり、一時は南方6省を失うという事態にまで及んだが、81年、鎮圧に成功した。ついで83年には、最後の明の遺臣で台湾に拠(よ)った鄭成功(ていせいこう)の子孫も帰順し、清の統一は完成した。
[川勝 守]
康煕帝から雍正帝(ようせいてい)を経て乾隆帝(けんりゅうてい)の中ごろまでの約130年間は清の全盛期で、その版図は拡大した。康煕帝は東進南下したロシアと1689年ネルチンスク条約を結んで、ロシア人を黒竜江(こくりゅうこう)流域から駆逐した。ついでモンゴル高原に覇を唱えたジュンガルに雍正、乾隆の3代にわたって遠征し、青海を版図に加え、チベットを保護国化し、ジュンガルの故地に準部(じゅんぶ)・回部(かいぶ)(後の新疆(しんきょう)省)を置いた。乾隆帝の時代には、さらに西トルキスタンのコーカンド、ブハラ、アフガニスタンにも勢力を伸ばし、ビルマ(現ミャンマー)、ベトナムから、ネパールのグルカにまで遠征軍が送られ、諸国は清の朝貢国となった。
康煕、雍正、乾隆の3帝はいずれも有能な専制君主で、中国の文化や伝統を尊重して漢人官僚を重用し、租税の減免、黄河の治水、官吏の綱紀粛正を断行して民心を集め、社会の安定に寄与した。しかし、乾隆帝の晩年になると、権臣和珅(わしん)が賄賂(わいろ)をむさぼるなど、官吏の腐敗が著しくなって政治が乱れた。しかも、人口が3億人を超え、余剰人口は都市の流民や遊民、秘密結社や宗教結社を頼る者となった。そのほか少数民族地区へ入り込む者や海外へ出て華僑(かきょう)となる者も増大した。支配民族である満洲族の生活も苦しくなった。社会矛盾が増大して、地方に反乱が起こった。乾隆末年、四川(しせん)、雲南の辺境に起こったイスラム教徒(回民)やミャオ族などの諸反乱は、乾隆帝が嘉慶帝(かけいてい)に譲位した(1795)ころ、10年にわたって湖北ほか5省を席捲(せっけん)した白蓮(びゃくれん)教徒の大反乱となった。官兵である八旗(はっき)は無力で、民間の地主の軍(郷勇(きょうゆう))の力を借りた。しかし、その後も華南の海寇(かいこう)や北京の天理教の乱などが続き、世情は騒然としてきた。
[川勝 守]
すでに18世紀末に産業革命の段階に入ったイギリスは、販路拡大を企図して、乾隆帝のときにマカートニー、嘉慶帝のときにアマースト、道光帝のころネーピアなどを派遣して交渉にあたったが成功せず、1840年アヘン問題に端を発してついに戦争となった(アヘン戦争)。広州の林則徐(りんそくじょ)らの活躍は目覚ましかったが、戦争の長期化を恐れた朝廷は、イギリスと講和し、1842年南京条約を結んだ。この条約で香港(ホンコン)島が割譲され、上海(シャンハイ)ほかの5港が開港された。翌43年には開港場における居留地(租界)の設置、領事裁判権などを認める不平等条約である虎門寨(こもんさい)追加条約が結ばれた。44年にはアメリカ(望廈(ぼうか)条約)、フランス(黄埔(こうほ)条約)もイギリス同様の条約を結んだ。以後、清朝は列強の中国侵略の媒体としての性格を強めた。しかも中国人の中華意識と中国の土地が広く物が豊か(地大物博)であることに支えられた清は、自由貿易と国際法になじまず、再度の戦争を繰り返した。1856年のアロー戦争、84年の清仏戦争、94年の日清戦争など、清は戦争に敗北し多大な賠償金を負担した。こうした結果、大量の銀が流出し、人々は物価騰貴に苦しみ、また、列強による中国内の権益拡大とともに、従来の生活の変更を余儀なくされる者も増大した。洪秀全(こうしゅうぜん)が清朝打倒と地上の天国の建設を目ざした太平天国も、地主制などの封建的諸関係の変革とともに、外国勢力と対決せざるをえなかったのは、中国近代史の必然であった。清軍の無力を知った地主や大商人は情勢の進展に驚き、郷土の自衛軍を組織した。なかでも曽国藩(そうこくはん)の湘勇(しょうゆう)、李鴻章(りこうしょう)の淮勇(わいゆう)がその中心となった。
太平天国の鎮圧後、曽国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)らの漢民族出身の官僚は政府の要職を占め、西洋の技術を取り入れ、富国強兵・殖産興業に努めた。これを洋務運動といったが、「中体西用(ちゅうたいせいよう)」といわれるように中国の政治体制を変えずに西洋の科学技術を取り入れようとしたもので、社会の近代化は進まなかった。日清戦争の敗北は洋務運動の破綻(はたん)を示し、しかも日本への遼東半島割譲に反対するロシア、ドイツ、フランスの三国干渉の結果、列強の中国における利権獲得競争が激化した。康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)らは、清の支配体制を日本の明治維新に倣って立憲君主制にすべきであると主張し(変法自強)、1898年光緒帝(こうしょてい)にその主張が認められ、改革が始まった(戊戌(ぼじゅつ)の変法(へんぽう))。しかし西太后らの保守派は、軍を握る袁世凱(えんせいがい)と結び、改革派を弾圧、康有為らは日本へ亡命し、改革は100日で挫折(ざせつ)した(戊戌の政変)。
[川勝 守]
当時、民衆のキリスト教排斥(仇教(きゅうきょう))と列強の経済的進出への反対が高まり、これを山東を中心とした民間宗教結社の義和団が組織した。義和団は1898年暴動を起こし、「扶清滅洋(ふしんめつよう)」を旗印に教会、鉄道などを破壊しながら北京に迫り、外国公使館地域を包囲した。これに対し列強は、日本・ロシアを中心に軍隊を派遣し、義和団を鎮圧した。多大な賠償金の支払いと巨額の借款は中国の半植民地化を促進させたが、しかし中国民衆の動向は革命の機運に向かっており、「滅満興漢(めつまんこうかん)」の民族主義は華僑(かきょう)、留学生、民族資本家の反封建主義と合し、孫文(そんぶん/スンウェン)の中国同盟会に結集した。これに対し清朝は、1908年憲法大綱を発表し、9年後の国会開設を約束したが、すでに遅く、四川省での鉄道国有化反対運動が各地へ波及し、11年10月10日には武昌(ぶしょう)の湖北新軍が蜂起(ほうき)して辛亥(しんがい)革命となり、12年1月、革命派は孫文を臨時大総統に推し、南京に中華民国の成立を宣言した。ここに清朝最後の皇帝宣統帝(せんとうてい)溥儀(ふぎ/プーイー)は退位したが、それは中国専制君主制数千年の終焉(しゅうえん)でもあった。
[川勝 守]
300万人に満たない満洲族が、100倍の人口をもち進んだ社会経済状態の中国を制圧できたのは、満洲族を残らず皆兵とした八旗の制度によって圧倒的な軍事力を支えとした一方、政治・行政制度では、前代の明の官制を、欠陥を是正しながらほぼ全面的に踏襲したことによる。しかし、やはり異民族支配の王朝としての特色が官制上にみられる。なお、清末に至り、西洋の制度を取り入れて諸改革が行われた。
[川勝 守]
太祖時代の1629年、漢文翻訳・国事記録の機関として文館が設置され、次の太宗時代の1636年に内国史院、内秘書院、内弘文院の内三院となり、各大学士が置かれたが、皇帝直属の書記室にすぎなかった。1658年、内三院は改められ、明制の内閣が設けられ、殿閣大学士と協弁大学士が置かれた。また別に最高政務機関としては太宗時代から皇族・満洲族貴族からなる議政王大臣があり、1644年の入関後も軍事をはじめ重要な国務の審議にあたったが、雍正年間(1723~35)に至り新たに軍機処が設けられ、内閣大学士、六部(りくぶ)尚書・侍郎のなかから軍機大臣が任ぜられ、重要な政務はここに集中するようになった。政務執行機関は吏・戸・礼・兵・刑・工の六部(りくぶ)、大理寺以下の5寺、監察機関の都察院(とさついん)のほか、翰林院(かんりんいん)、国子監(こくしかん)、欽天監(きんてんかん)など明制を継承した。満洲族関係の宗人府、内務府や藩部の事務を扱う理藩院(りはんいん)などを除く中央官庁の長官は、いずれも満漢併用(まんかんへいよう)であった。なおそのほかには宗室欠(そうしつけつ)、満州欠、蒙古欠(もうこけつ)などの専欠(ある特定の身分に限って、官職上の地位を与える)の制もとられていた。清末になると外交が重要となり、1861年に総理各国事務衙門(がもん)が設けられ、義和団事件後さらに外務部に改められた。1906年立憲準備とともに官制の大改革が行われ、一一部二院制が行われた。08年には資政院が開かれ、11年には内閣・軍機処が廃止され、責任内閣制が実施された。なお、この間1905年には、隋(ずい)・唐以来行われた科挙が廃止され、学校出身者が任用された。
[川勝 守]
中国本土、東北、台湾を直轄地とし、モンゴル、青海、チベット、新疆を藩部とした。中国本土は18省に分けられ、各省に巡撫(じゅんぶ)、数省ごとに総督が置かれ、総督は地方の最高長官であった。省の下は府、州、県、庁に分けられ、長官を知府、知州、知県、同知といった。なお省と府との中間に道が置かれ、道員がいた。満州は清朝発祥の地として重視され、盛京、吉林(きつりん)、黒竜江の3将軍が置かれ、特別の軍政が敷かれた。
[川勝 守]
兵制は清朝独特で、その中心は八旗である。八旗は清の興起とともに行われた軍事ならびに行政の組織で、黄・白・紅・藍(あい)の四色旗と各色旗にへりをつけた4旗の計8旗に全満洲族が編成された。各旗は男300人を1ニル、5ニルを1ジャラン、5ジャランを1旗とした。のち、太宗時代にモンゴル、漢民族各八旗がつくられた。入関後にはもっぱら漢民族による緑営も創設され、北京の治安警察のほか、各省総督、巡撫、提督、総兵の指揮下で各地の治安維持にあたった。しかし、清末の白蓮教徒の乱や太平天国では、八旗、緑営ともに無力で、かわって郷勇が用いられた。同治(1862~74)中興期には李鴻章が郷勇に洋式武器を与えたり、八旗、緑営から選抜した練軍をもって洋式陸軍化を試み、また曽国藩が長江水師をつくり、ついで南洋・北洋水師がつくられた。とくに李鴻章の北洋水師は強力で近代海軍となったが、清の陸・海軍ともに日清戦争で大敗し、以後は張之洞(ちょうしどう)の自強軍に始まる各省の軍が次々とでき、これを新軍と称した。なかでも袁世凱の率いる北洋常備軍がもっとも精鋭であった。
[川勝 守]
税制は、明末の一条鞭法(いちじょうべんぽう)を継承したが、康煕帝の末年に盛世滋生人丁(せいせいじせいじんてい)の制定が行われ、丁額(人頭税額)全体が固定されたことによって、人頭税(丁税)を土地税(地税)のなかに繰り入れることが実現した。やがて、これは雍正帝の時代に地丁銀制となったが、こうした税法の大改革により、これまで中国で長く行われてきた、税と徭役(ようえき)という2種の国家収取は税一本にまとめられた。税制と関連した制度に村落・郷村制度があるが、これも明代以来の里甲制が地方的変差をみせながら継承された。江南の江蘇(こうそ)、浙江(せっこう)では明末以来、均田均役が行われたが、これも雍正年間以後、順荘編里となった。その他の地域については不明な点が多い。一方、治安維持の郷村組織としては、近隣どうしの連帯責任を重んじる保甲制度と、郷紳地主の農村指導を期待した郷約が行われた。
地丁銀の歳入全体に占める比重は乾隆年間(1736~95)にほぼ70%に達したが、これに次ぐ主要税目である塩課、関税の二者がしだいに増加した。とくに清末には、五港開港後の海関税や、太平天国鎮圧の軍費として新設された釐金(りきん)など、内地、外国両面の関税の増設があった。
[川勝 守]
入関前には成文法典はほとんどみられなかったが、1646年刑法典として明律を踏襲した清律集解附例(しんりつしっかいふれい)が制定され、ついで79年刑部現行則例がつくられ、それが律に取り入れられ、1740年に清律令として集成された。行政法典も明会典を踏襲して1690年康煕の大清会典が作成され、以後、雍正、乾隆、嘉慶、光緒の各代にわたって編纂(へんさん)されたが、初め会典内に入れられてあった事例は乾隆以後、会典則例または会典事例として分離独立させた。ただし会典は大綱を示したにすぎず、実際の運用には各官庁別につくられた則例、事例が重んぜられた。
[川勝 守]
宋(そう)・元・明と同じく官僚、地主、商人が社会の支配層であり、彼らの所有地は佃戸(でんこ)によって耕作された。一方、都市に住む職人や商人も零細な経営者が多く、しかも官僚の統制下にあった。明の中期以後、銀が流通すると、農村に定期市が増え、それらは鎮や市に発達した。この間、農村の貧富の差がさらに拡大し、多くの農民が土地を失って佃戸となり、また都市の遊民となった。その反面、没落した者の土地を買収した大地主が出現し、彼らは科挙に及第して進士や挙人などの身分を獲得し、また官職を手に入れて郷紳とよばれ、都市に広大な邸宅を構えた。明末清初の戦禍の後、清朝政府が流通の抑制や物価の安定を図ったこともあって、農村の回復がみられた時期もあったが、一般的には農村はしだいに疲弊するのに対し、都市は支配層や商工業者を中心ににぎわいをみせた。都市の繁栄は諸産業の発展にも支えられていた。農業では揚子江(ようすこう)中流域の湖南・湖北地方の開発が進み、揚子江の下流デルタをしのぐ穀倉地帯となったが、清後期には台湾、広西、さらに東北三省にも開拓が始まった。一般に華中・華南は稲作、華北は麦・粟(あわ)作が中心であるが、二毛作や二期作など集約農業が行われ、養蚕、綿花栽培のほか、茶、紙、藍(あい)、麻、豆などの手工業の原料生産が増加し、清代から新たにトウモロコシ、甘藷(かんしょ)、タバコ、ラッカセイなどの栽培が普及した。これらの新種の作物はおもに飢饉(ききん)対策用や換金作物であったから、その普及は農民や都市住民の生活の安定に寄与した。工業では伝統的な生糸・絹織物のほか、揚子江下流デルタ地方の上海付近に、明代以来綿織物業の農村家内工業が普及しており、また景徳鎮(けいとくちん)の陶磁器生産には数十万の職人が従事し、生産過程での分業も行われた。農業・工業の生産の発展は商業を盛んにした。北の山西商人(山西省・陝西(せんせい)省出身)、南の新安商人(安徽(あんき)省出身)などは、各地に同業あるいは同郷ごとに会館や公所を設けて結束し、全国的な取引に応じた。清代中期以後には、福建商人(閩商(びんしょう))、寧波(ニンポー)商人(または浙江商人)も上海などに進出したが、やがて華僑の活動とともに海外での活躍が目だった。また1757年以後、対外貿易は広東1港に限られていたが、そこで取引をしていたのはいわゆる広東十三行とよぶ特許商人公行(コーホン)であった。
経済の発展によって人口は激増した。18世紀には中国の隅々まで開発が進み、湖南、四川、広西、貴州、雲南などに分布するミャオ族、チワン族などの少数民族の居地まで及んだ。しかしその結果、彼らと漢族との摩擦を生じ、少数民族の反乱を招いた。また、辺境に流亡してきた農民は白蓮教などの秘密宗教に頼って、しばしば反乱を起こした。なお、辺境や少数民族地区でなくとも、農村の過剰人口は、ともすれば都市に流入し、遊民や無頼となったが、この階層を中核として清代には政治秘密結社の幇(パン)(青幇(チンパン)・紅幇(ホンパン)など)や会党(三合会や哥老(かろう)会)ができた。清末の太平天国運動や辛亥革命にもこうした会党の活動がみられる。
清は初め海禁を厳しくし、広東1港で、貿易は茶、生糸輸出を主とする片貿易であったが、19世紀に入り、インド産アヘンが密輸入されるとその関係は逆になった。アヘン戦争後、引き続くアヘン輸入と銀の流出のため中国経済は疲弊したが、農業と結合して驚くべき経済性をもつ在来家内綿工業が抵抗し、イギリス産業資本の綿織物輸出の思惑は外れた。しかしその後の執拗(しつよう)な戦争、条約取決め、政治圧力によって、1880年代には綿製品の輸入はアヘンをしのぎ、逆に綿花が出超に転じるなど貿易構造は原料植民地的な型を示した。この時期、洋務運動が展開し、軍需工業のほか上海機器織布局など民需企業にも官僚資本の進出があったが、いたずらに民間企業の発展を抑えただけであった。他方、日清戦争後、帝国主義段階に入った列強の中国分割は露骨となり、借款、金融、鉄道利権の獲得、企業の直接進出の形で強められ、中国は完全に半植民地化した。
[川勝 守]
清は好学の皇帝が多かったが、とくに康煕帝は呉三桂ら三藩に対抗して、江南士大夫の心をつかむためにも、学者を招いて講学させ、朱子学を正統的な官学とし、漢文化になじんだ。一方、明末以来の学者顧炎武、黄宗羲、王夫之(おうふうし)らは野にあって、反満洲族的な民族意識や政治観をもった書物を著した。清朝はやがてこれらに対し厳しい態度で臨み(文字の獄、禁書)、書物の編集事業に事寄せて国家検定の作業を行った。そのため学問は政治から遊離し、ひたすら古典の実証と解釈に沈潜した。この学を考証学とよぶが、その祖の顧炎武がもっていた激しい経世(政治的実践思想)の念は失われていった。史学の銭大昕(せんたいきん)、哲学思想の戴震(たいしん)、文字音韻学の段玉裁らの学者が輩出し、康煕帝の『康煕字典』、康煕・雍正帝の『古今図書集成』、乾隆帝の『四庫全書』などの大規模な文化事業に動員された。考証学には近代的批判精神や科学思想の萌芽(ほうが)もみられるが、やがてその非実践性から、道光以後の中国社会の危機のなかで、経世を重んじる公羊(くよう)学派の康有為、梁啓超の台頭をよび、古文学派においても曽国藩や張之洞の宋学復興の運動となった。曽、張らの主張は洋務運動のなかで「中体西用」となって展開されたが、やがて厳復らによる西洋思想の本格的紹介や、欧米、日本への留学による新思想、新学問の経験によって清朝文化は幕を下ろす。孫文の民族・民権・民生の三民主義はその結晶であった。
清代の文学は、元・明に引き続いて戯曲や小説が多いが、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』が二大名作とされ、これらは中国古典劇の集成である京劇で上演された。小説では『聊斎志異(りょうさいしい)』『浮生六記』などのほか、『儒林外史』『紅楼夢(こうろうむ)』の二大長編がつくられた。これらはいずれも、爛熟(らんじゅく)しきった旧中国社会の満洲族貴族や漢民族官僚の家庭と人物を具体的に描写している。また清末には林紓(りんじょ)らによって西欧近代小説の紹介が始まる一方、『官場現形記』『老残遊記』『二十年目睹之怪現状(もくとのかいげんじょう)』など官界の腐敗を暴露した小説が現れ、『申報』『蘇報』『益聞録』などの新聞の発刊も始まった。
絵画の主流は、明以来の南画であるが、清初に明末の董其昌(とうきしょう)の流れをくむ王時敏、王鑑(おうかん)、王翬(おうき)、王原祁(おうげんき)、呉歴、惲寿平(うんじゅへい)の四王呉惲が現れ宮廷画壇をつくったが、石濤(せきとう)、八大山人らの激しい抵抗精神をもつ作風も盛んであった。なお、イタリア人カスティリオーネ(郎世寧(ろうせいねい))が、西洋の遠近法や陰影法などの作風をもたらし、中国絵画に影響を与えた。
書道は、清中期までは明末の董其昌の流れが大勢を占めたが、清末に北朝の碑の書法が重視され、阮元(げんげん)、包世臣(ほうせいしん)らによって新風がおこった。
工芸は陶磁器、玉器、ガラス器、文房具などに豪華で精巧なものがつくられ、宮廷や官僚士大夫の文人趣味を増長させた。
建築は、宋~明の伝統様式を継承したが、建築技法や彩色に技巧が凝らされた。なお離宮である円明園にはバロック式洋風建築もつくられた。
[川勝 守]
『増井経夫著『中国の歴史7 清帝国』(1974・講談社)』
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1616~1912
中国の最後の王朝。満洲人が支配し,12代297年続いた。第1代の太祖ヌルハチは,南満洲の建州女直(じょちょく)の出身で,満洲族を統一し,1616年即位して後金(こうきん)国と号した。ついで明軍を破り,瀋陽(しんよう)を都としたが,その子太宗ホンタイジは朝鮮,内モンゴルを従え,36年国号を清と改めた。次に順治帝が即位すると,44年たまたま明が李自成(りじせい)の内乱で滅んだのに乗じて,中国内地に進出し,北京に遷都した。これより清は中国王朝となり,明の残存勢力や三藩(さんぱん)の乱,台湾の鄭氏(ていし)を平定した。当時は康熙(こうき)帝の時代で,その後,雍正(ようせい)帝をへて乾隆(けんりゅう)帝の末年の18世紀末まで100余年間,康熙・乾隆時代と呼ばれる全盛期を現出した。この期間に清の領土は東アジアの大半に及び,内治は充実し,人口は増加し,商工業は繁栄した。学問の奨励とともに大編纂事業が行われ,考証学が発達した。清は満洲人に対しては初めから八旗制度で統制したが,中国支配においては中国の伝統文化を尊重し,明の制度をだいたい継承し,漢人を登用した。しかし文字の獄や禁書が行われ,政治批判を厳禁した。18世紀末になると清は衰え始め,白蓮(びゃくれん)教徒の乱など反乱がしばしば起こり,19世紀半ばに太平天国の乱が発生した。一方その頃から欧米列強の外圧が加わり,アヘン戦争,アロー戦争が起こり,ロシアに黒竜江地方を奪われた。その後,同治中興(どうちちゅうこう)となり洋務運動が起こったが,19世紀末,日清戦争で敗北すると,列強の帝国主義勢力が侵入し,義和団事件が発生し,8カ国の連合軍が北京を占領した。その頃光緒帝,康有為(こうゆうい)らにより行われた変法運動が,西太后(せいたいこう)らの反対で失敗した(戊戌(ぼじゅつ)の政変)が,他方孫文らの革命運動が盛んとなり,1912年宣統帝が退位して清は滅んだ。
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女真族が建てた中国最後の王朝(1616~1912)。清太祖ヌルハチが東北地方の女真族を統一,1616年ハン位について後金国を建て,遼東に進出し瀋陽を都とした。第2代太宗ホンタイジは内モンゴル(内蒙古(ないもうこ))を征服して,36年皇帝位につき国号を清と改めた。44年第3代世祖順治帝が北京に攻め入り,首都と定め中国支配を宣言。康熙(こうき)・雍正(ようせい)・乾隆(けんりゅう)の3代130余年間は最盛期で,乾隆帝の時代には中国東北地方・中国本土・台湾を直轄地,モンゴル・新疆(しんきょう)・青海(せいかい)・チベットを藩部,朝鮮・ベトナム・ビルマ・タイなどを朝貢国とした。1840年のアヘン戦争を機に諸外国の圧力により門戸を開いた。1911年辛亥(しんがい)革命がおこり,翌年宣統帝溥儀(ふぎ)は退位し滅亡。
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…こうして,預所が当該荘園の地主であるという事例が認められるが,かといってつねに地主=預所とは限らない。1310年(延慶3)9月の大和国平野殿荘預所平光清重陳状案に,課役負担をめぐる預所と百姓との相論に際しての預所側の主張として,〈凡そ当国諸庄薗之習,地上果役に於ては,地主(名主の事也)半分,百姓半分沙汰致すは通例也〉(原漢文)と述べられているような例もある(東寺百合文書)。また戦国期の興福寺大乗院領神殿荘に関して,院主尋尊は〈地作一円重職御領也〉といっているが(大乗院寺社雑事記),これは同荘の地主職と作主職とを領主大乗院があわせ所有するのだという主張である。…
…明治政府は王国体制のまま存続しつづける琉球の処遇について画策し,1872年(明治5)9月,琉球王国をひとまず〈琉球藩〉とし外務省の管轄とした。つづいて〈琉球藩〉を廃して〈沖縄県〉を設置しようとしたが,琉球側の執拗な抵抗と琉球に対して宗主権を主張する中国(清朝)の強い抗議にあい,容易に意図を実現することができなかった。74年,明治政府は先に台湾に漂着して殺害された琉球人に対する報復措置を名目に台湾出兵を行い,琉球が自国の版図であることを中国側に示した。…
※「清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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