(読み)かみ(英語表記)god

精選版 日本国語大辞典 「神」の意味・読み・例文・類語

かみ【神】

〘名〙
① 宗教的、民俗的信仰の対象。世に禍福を降し、人に加護や罰を与えるという霊威。古代人が、天地万物に宿り、それを支配していると考えた存在。自然物や自然現象に神秘的な力を認めて畏怖し、信仰の対象にしたもの。
※古事記(712)中「其の大后息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は、当時(そのかみ)(かみ)を帰(よ)せたまひき」
※徒然草(1331頃)二〇七「大きなる蛇、数も知らず凝りあつまりたる塚ありけり。この所の神なりといひてことのよし申しければ」
② 神話上の人格神。
※古事記(712)上「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成りませる神(かみ)の名は、天之御中主神」
③ 天皇、または天皇の祖先。
※万葉(8C後)二〇・四四六五「ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 岳(たけ)に天降(あも)りし すめろきの 可未(カミ)の御代より」
④ 人為を越えて、人間に危害を及ぼす恐ろしいもの。特に蛇や猛獣。
※書紀(720)神代上「素戔嗚尊、蛇(をろち)に勅(みことのり)して曰はく、汝は是れ畏(かしこ)き神(かみ)なり」
⑤ 神社。また、神社にまつられた信仰の対象。死後に神社などにまつられた霊や、死者の霊魂などをもいう。
※枕(10C終)二八七「神は松の尾」
⑥ (God の訳語) キリスト教で、宇宙と人間の造主であり、すべての生命と知恵と力との源である絶対者をいう。
※旧約全書(1888)創世紀「元始(はじめ)に神(カミ)天地を創造(つくり)たまへり」
⑦ 雷。なるかみ。いかずち。
※古事記(712)中・歌謡「道の後(しり) 古波陀嬢子(こはだをとめ)を 迦微(カミ)の如(ごと) 聞えしかども 相枕まく」
⑧ (比喩的に) 恩恵を与え、助けてくれる人、ありがたいものなどをいう。「救いの神」
⑨ 他人の費用で妓楼に上り遊興する者。とりまき。転じて、素人の太鼓持。江戸がみ。
※雑俳・柳多留‐四(1769)「おやぶんの女房かみたち供につれ」
⑩ 六をいう青物市場の符丁。
[語誌](1)同音語である「上」と同一語源と考える説と、別語源と考える説がある。同一語源説は、カミの元来の意味は「上」であり、「上方」という方向性を指し示す語であったものが、カミの毛(髪)、カミの存在(神)、というように用いられ、それが、カミだけで表わされるようになったとする。別語源説は、上代特殊仮名遣いにおける仮名の違い(神のカミのミは乙類、上のカミのミは甲類)と、上代における意味の類縁性の希薄さを根拠に、同一語源とは考え難いとする。
(2)アイヌ語で「神」をさすカムイは、上代以前「カミ」が kamï の音をもっていた時代に日本語から借用したものか。
(3)⑥の英語 God の訳語としての近代語「神」の成立には、聖書翻訳の問題が関わっている。中国でのキリスト教宣教師たちの God の訳語に関する議論では、「上帝」と「神」とで意見が分かれ、それぞれの訳語による聖書翻訳が行なわれた。「神」を採用したブリッジマンおよびカルバートソン訳の中国語訳聖書が、明治初期に来日したアメリカ人宣教師によって日本に持ち込まれ、これが God をカミと和訳するのに、決定的な影響力を持った。

しん【神】

〘名〙 (「じん」とも。「しん」は漢音。「じん」は呉音)
① 天地を支配するふしぎな力をもつもの。人間を超越した宗教的な存在で、日本神話で、「かみ」のこと。神霊。
※高野本平家(13C前)三「さてこそ瀬尾太郎兼康をば神(シン)にも通じたる物にて有けりとおとども感じ給ひけれ」 〔礼記‐祭法〕
② (形動) 人間の知恵でははかり知ることができないふしぎな力があること。霊妙不可思議なこと。神聖。
※玉葉‐安元三年(1177)七月三〇日「隆憲説法、神也又妙也、衆人驚聞者也」 〔易経‐繋辞上〕
③ 肉体にやどる心のはたらき。精神。魂。心。
※勝鬘経義疏(611)摂受正法章「外形端粛曰威、内心難測曰神」
※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)越後路「暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず」 〔荀子‐天論〕
④ 神道。
※黄表紙・心学早染艸(1790)上「当時は儒・仏・神(シン)のたうとき道しきりにおこなはれて」
⑤ 神(かみ)も照覧あれの意で、自誓の語。まちがいないこと。心からそう思うこと。→神(しん)ぞ神以(しんもって)

かん【神】

〘名〙 (古くは「かむ」と表記) 神。特に、「かみ(神)」が名詞や動詞などの上に来て複合語を作る場合に多くこの形をとる。そのものや行為が、神にかかわるものであることを示す。「かんおや(神祖)」「かんほ(神寿)ぐ」「かん(神)さぶ」「かんながら(随神)」など。
※書紀(720)景行四〇年是歳(北野本訓)「蒜(ひる)を嚼(かみ)て人(ひと)(をよ)び牛(うし)(むま)に塗(ぬ)る。自(をのつか)ら神(カム)の気(き)に中(あた)らず」
[補注]上代の資料は「かむ」と読むべきであるが、のち「かん」と撥音化したので、便宜上この項に収めた。

かんび【神】

〘名〙 (動詞「かんぶ(神)」の連用形の名詞化。「かむび」と表記) 神さびていること。こうごうしいさまであること。かんさび。
※万葉(8C後)一七・四〇二六「鳥総(とぶさ)立て 船木伐(き)るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神備(かむビ)そ」

かん‐・ぶ【神】

〘自バ上二〙 (「かむぶ」と表記。「ぶ」は接尾語) こうごうしくなる。こうごうしく古びる。また、年老いたさまにもいう。かんさぶ。
※万葉(8C後)一〇・一九二七「石上(いそのかみ)布留の神杉神備(かむビ)にし吾れやさらさら恋に逢ひにける」

かむ‐・ぶ【神】

〘自バ上二〙 ⇒かんぶ(神)

かむび【神】

〘名〙 ⇒かんび(神)

かむ【神】

〘名〙 ⇒かん(神)

じん【神】

〘名〙 ⇒しん(神)

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デジタル大辞泉 「神」の意味・読み・例文・類語

かみ【神】

信仰の対象として尊崇・畏怖いふされるもの。人知を超越した絶対的能力をもち、人間に禍福や賞罰を与える存在。キリスト教イスラム教では、宇宙・万物の創造主であり、唯一にして絶対的存在。「を信じる」「合格をに祈る」「のみぞ真実を知る」
神話や伝説に人格化されて登場する語りつがれる存在。「火の」「縁結びの

㋐偉大な存在である天皇をたとえていう語。また、天皇の尊称。「現人あらひとがみ
「大君は―にしませば赤駒の腹ばふ田居を都となしつ」〈・四二六〇〉
㋑神社にまつられる死者の霊魂。

㋐助けられたり、恩恵を受けたりする、非常にありがたい人やもの。「救いのが現れた」
㋑非常にすぐれた才能や技術をもつ人。「漫画の
㋒俗に、非常にすぐれているようす。「対応」

㋐人間に危害を加える恐ろしいもの。
とらといふ―を生け取りに」〈・三八八五〉
㋑雷。なるかみ。
「―は落ちかかるやうにひらめく」〈竹取
[下接語]天つ神出雲いずもの神縁結びの神大神大御おおみ風の神かまの神河の神国魂くにたまの神国つ神さいの神救いの神すめ田の神鳴る神火の神福の神まが道の神結びの神産霊むすびの神八百万やおよろずの神山の神(がみ)商い神現人あらひと生き神いくさ石神市神犬神氏神うぶ産土うぶすな枝神臆病おくびょうおなり神かまど猿神地神式神死に神鎮守神年神天一なか霹靂はたたひだる神貧乏神蛇神ほうきまくら守り神迷わし神巡り神疫病神留守神
[類語]ゴッド天使

しん【神】[漢字項目]

[音]シン(漢) ジン(呉) [訓]かみ かん こう
学習漢字]3年
〈シン〉
かみ。「神格神殿神仏神明神霊軍神敬神女神祖神
人知ではかり知れない不思議な力。技や才能などが非常にすぐれている。「神技神速神童神秘入神
霊妙な心の働き。心。「神経神色休神失神心神精神・放神」
神道しんとう。「神式
神戸。「阪神
〈ジン〉
かみ。「神祇じんぎ神器じんぎ神社神代荒神祭神水神風神明神みょうじん竜神
不思議な力。「神通力じんずうりき
〈かみ(がみ)〉「神風神業氏神女神めがみ疫病神
[名のり]か・きよ・しの・たる・みわ
[難読]神楽かぐら随神かんながら惟神かんながら神無月かんなづき神籬ひもろぎ神酒みき神子みこ神輿みこし海神わたつみ

しん【神】

《「じん」とも》
万物を支配する不思議な力をもち、宗教的な畏怖・尊敬・礼拝の対象となる存在。かみ。「守護
「狐と申すは皆―にて」〈狂言記・今悔〉
人知ではかり知れない不思議なはたらき。
精神。こころ。
「―は傷み、魂は驚くと雖も」〈紅葉金色夜叉
神道しんとう。「・儒・仏」

かん【神】

[語素]「かみ(神)」が名詞、動詞の上に付いて、複合語を作るときの語形。古く、「かむ…」と表記されたものが、中世以降「かん…」と発音・表記されたものと、「かみ…」が撥音化して「かん…」となったものとがあって、その区別はつけにくい。「主」「さびる」「さる」

かむ【神】

[語素]「かみ(神)」が複合語を構成するときに現れる語形。中世以降「かん」とも発音。「風」「さぶ」

み【神/霊】

霊。神霊。「山つみ」「わたつみ」など、複合語として用いられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「神」の意味・わかりやすい解説

神 (かみ)
god

神観念の内容は,それを分類し整理し定義する方法のいかんによって大きな変化を示す。哲学者はそれを万物の存在根拠であり絶対者であると考え,神学者は超越的な救済神であるとみなした。また神話学者はそれを自然神とか擬人神といった枠組で分類し,宗教人類学者は死霊や精霊や祖霊,あるいはマナのような呪力と神々との相互連関の問題をとりあげた。そのほか一神教と多神教の両極をたてて,その中間領域にさまざまな神観念の変化型を指摘する宗教学者もいれば,神観念の発達にも進化と退化があったとする社会学者もいた。また農耕社会や狩猟社会と神観念との対応というテーマを追求したり,聖性と神性という枠組によって神の輪郭を明らかにしようとするなどの立場があった。神観念についての解釈がこのように千差万別であるのは,神が人間の想像力の所産であり,この世に存在するものではないという事情による。〈神の存在証明〉を試みようとした宗教学者や哲学者がいなかったわけではないが,その試みはいつも成功しなかった。古く,神の本質を存在の根拠とか絶対的なものとしてとらえたのは,ギリシア哲学のような理性的な思弁やスコラ神学のようなキリスト教的な思考であった。しかしやがて世界の諸地域における宗教現象の異質性が明らかにされるにつれて,神に関する考え方や理論にも多様な展開がみられるようになった。

 その第1は,世界の諸宗教を多神か一神かによって整理しようとする考え方である。すなわち,主として古代国家の宗教にみられる多神教polytheism(ギリシア,ローマ,エジプト,日本),多神のうち時に応じて特定の一神を重要視する単一神教henotheismや交替神教kathenotheism(古代インドのベーダ宗教),ただ一柱の神のみを絶対視する一神教monotheism(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教),そしていっさいの存在物に神的なものの内在を想定する汎神教(論)pantheism(仏教)という分類がそれである。その第2は,神を人格的(形態的)存在と非人格的(非形態的)存在との2種に分ける考え方である。まず人格的な神は,キリスト教やイスラム教におけるように非形態的である場合もあるが,主として多神教的世界に登場する擬人神や人間的属性をもつ自然神,または文化神や英雄神などのように形態的である場合が多い。これに対して非人格的な神は,マナのような呪力やデーモンのような霊力の観念からなるとされ,非形態的な性格をもっている。デーモンはときに半獣半人の姿をとって形態化することがあるが,その本来の出自はマナ的なものである。つぎに第3として,神の観念を,現象の背後にひそむ〈聖なるもの〉(R. オットー,M. エリアーデ)あるいは人間の全身的投企を意味する〈究極的関心〉(P. ティリヒ)といった観念によって説明しようとする理論が挙げられる。この考えは,神をその形態性や属性によって規定しようとする行き方に対して,人間の心理的な感受性や主体的な意識にもとづいて神的存在の象徴性や実在性を証明しようとするのである。最後に第4として,神的存在を高次の神と低次の精霊の2種に分類し,その両者と人間とのダイナミックな関係に照準をあてて神信仰のメカニズムを類型化する試みが挙げられる(M. ウェーバー)。すなわち前者は,神の前に人間が拝跪して礼拝する〈神奉仕Gottes-dienst〉の型であり,後者は人間が精霊に呼びかけてその加護を要求する〈精霊強制Geistes-zwang〉の型である。人間によって奉仕される神と人間によって操作される精霊という二分法である。

 以上のように,神観念の発展や類型についての宗教学的な理論の多くはヨーロッパにおいて生みだされ,その発想の基盤も大なり小なりキリスト教的観念の強い投影を受けていたことはいなめない。しかしそのような理論的枠組を取り去れば,神の世界は大づかみにいって自然神,人間神,超越神の3種に類別することができよう。自然神とは日月星辰や風雨雷雲のような天体・気象現象を神格化したものであり,また木石や山水に精霊の存在を認めてこれを聖化したものである。つぎに人間神は人間を神格化した一群で,一般に男神・女神,善神・悪神,創造神・破壊神,英雄神・文化神などをさし,同時に人間の生活機能をつかさどる農神・工神,狩猟神・漁労神などの機能神や,共同体の繁栄と運命をつかさどる守護神などもここに含められる。また人間神のうち重要な役割を果たしているのが死者の霊を神格化した祖先神である。これは祭祀と崇拝を受けている限り守護神としての機能を果たすが,それを怠るとデーモン(鬼霊,悪霊)と化して祟(たた)りを下す。そこに死霊の鎮魂という儀礼の必然性が生ずるが,この死霊がやがて祖霊の段階をへて神霊の高位へと上昇していく過程に神観念の多彩な展開が見られる。最後の超越神は,現世を超越する唯一絶対神であり,端的にキリスト教やイスラム教の神をさす。この超越神信仰は,神話的な表象によって宇宙を彩る自然神信仰や,人間霊の転変によって世界を解釈しようとする人間神信仰とは異なって,宇宙と世界の調和を一つの抽象的な原理によって説明しようとするところに特徴が見られる。
執筆者:

古代イスラエル宗教,ユダヤ教,キリスト教,さらにイスラム教の系譜は,ふつう(唯)一神教といわれる。経典では旧約聖書(ユダヤ教では〈律法・預言者・諸書〉略してタナハTanakh),新約聖書,さらにコーランに示される。ヘブライズムの唯一神の特徴は,ギリシア思想における哲学的・思弁的宇宙原理や原始的自然宗教における畏怖の対象と異なるとともに,直接の環境世界をなす古代オリエント宗教の多神教における宇宙論的至高神とも異なり,特定の人間・社会に対する〈かかわり〉と〈働き〉の中に見られる。絶対他者の,歴史への人格的介入によってもたらされる終末論的救済において見られる神は,自然循環の神格化あるいは世界からの解脱に救済を見る諸宗教の神観念とは区別される。生ける人格的・歴史的な神であり,超越者でありつつ特定の人間集団と契約関係に入る契約と法の神であるという点は,神名啓示の古典的個所である《出エジプト記》3章14節に現れている。〈ありてある者〉とは,ギリシア的な絶対存在ではなく,〈ともにいます〉神を意味する。他の古代オリエント世界では,神的力は男女配偶神の交渉による豊穣に基づく宇宙論的秩序を表し,したがって現秩序維持に向かうが,ヘブライズムでは現状変革の力として,最も適切な機会に神の側から奇跡として働きかけられるものとされ,信頼が求められ,世界内的救済が期待される。そのため,神の法的意志に従う倫理的合理性(M. ウェーバー)が特徴的な宗教的性格をなす。

ヘブライズムの神は,歴史的にはモーセ時代に起源するが,その背景はさらに古く,《創世記》の族長期の〈族長の神〉にさかのぼる。彼らは季節的移動を生活様式とする半遊牧民として,特定の土地と結びつくヌーメン(神的存在)でなく,後代〈アブラハム,イサク,ヤコブの神〉と呼ばれるように,氏族の名祖の人格と結びついたヌーメンを尊崇した。モーセ宗教は,神名に従って〈ヤハウェ宗教〉ともいわれるが,歴史的には南パレスティナ,ミデアン地方のシャス族によって崇拝され,この遊牧民の移動に伴ってエジプトに入り,新王国期の身分変動によって下層労働者となった者たちが他の下層民とともに,モーセのカリスマ的指導によって脱出した際,奇跡的救済(出エジプト)を経験し,神の山(シナイ)においてこの歴史的救済の神と契約を結ぶ(シナイ契約,《出エジプト記》19~24)。ここに特定の〈一なる神〉に排他的な信頼と忠誠を尽くす宗教と,隣人の命・人格・名誉・財産など基本的権利を重んじる倫理とを不可分離的に統合する独特な生活形態が成立した(十誡)。近代ヨーロッパ世界の倫理的合理性の源泉はここにある。荒野で成立した誓約連合は,前12世紀以来カナンでオリエント的農耕文化と王制というまったく異なる政治形態と接触した。その結果,〈エール宗教〉の宇宙の創造主・王者の属性が,〈族長の神〉の導きの神のそれとともにヤハウェの属性に吸収され,ヤハウェは宇宙自然と歴史との支配者となった。さらに,王国期に出現した現実の世俗世界を間接統治する〈摂理〉の神が知識層によって造形され,世界史の中における民の使命(選び)が思想化された。そして前8~前6世紀の政治的・民族的危機の増大,王国滅亡に至る動きの中で,教条主義や熱狂主義と対立して,預言者は民の審判による神の義の貫徹という否定媒介的救済を説いた。

バビロン捕囚による体制崩壊の後,聖伝承は文書化され,経典化され,〈ことば〉の宗教は書物宗教になった。とくに律法(トーラー)は神の啓示と解され,個人的主体的な律法厳守による契約団体(教団)の再建がなされた。エズラによるこの律法主義の成立の結果,律法解釈の分裂が始まり,煩瑣な議論が続き,神は〈遠い神〉になった。イエスは,親しい〈父〉なる神とその神の支配の切迫を教え,再び〈近くにいます〉神を説いた。初代教会は,このイエスの十字架と復活によって神の救済が完全に啓示されたとして,イエスをキリスト,〈神の子〉と告白し,御子の贖(あがな)いによる新しい契約団体(教会)を形成した。その後の教理神学は,ヘブライズムの伝統的唯一神とこのイエス・キリストの人格との関係をめぐる論争を経て三位一体論を形成する。
執筆者:

カミは,人知を超える霊的な力の総体を示す存在であり,日本の民俗宗教の基本的観念の一つである。カミは,一般に神と表記されるが,神は,文化体系としての神道の表徴であり,カミを神と表記するについては,神道の成立が対応している。そこでカミは,神道における神観念の基礎にあたる部分といえるだろう。

カミの性格を考える場合,カミとほぼ同義語といえるタマが注目される。タマの顕著な特色は,それがつねに浮遊している霊であり,外来から何物かに付着して,またそこから去っていくという傾向をもっていることである。したがってタマは,外来魂といえる。たとえば稲のタマは稲魂とか倉稲魂(うかのみたま)と表現されている。稲魂が,稲穂や穀物に付着することにより,豊穣がもたらされると考えられている。この稲魂が基礎となって,神話では,保食神(うけもちのかみ)とか登由宇気神(とゆうけのかみ),大気津比売神(おおげつひめのかみ)といった穀物神が成立するのである。動物霊の典型であるキツネの霊は,人に憑依(ひようい)することで知られている。一方キツネガミという場合は,キツネの予知能力が畏怖の対象となり,しばしば稲荷神となって,祠にまつりこまれている。キツネの霊は憑依する段階で強く発現するが,カミとして意識されてはいない。また人魂と記す場合は,人間の生霊や死霊が浮遊している状況を表しているが,この場合人神すなわちヒトガミとは明らかに異なっている。一般にカミはタマの昇華したものとする説が支持されている。タマが非人格的存在であり,そこにある種の作為が働き人格的存在になって,神=カミと意識される。すなわちタマ→カミ,非人格的存在→人格的存在という理解である。しかしタマとカミとが観念上峻別できるかどうかは疑問視されるところもある。たとえば大国主命は,神話上の代表的な神格であるが,別に大国魂神とも記されており,両者に区別は認められない。神といっても木神,石神といえば,樹木や岩石に宿る霊を表現しているのであり,そこに個性的な人格の存在を表現するとは限らないとする考え方である。むしろカミとタマとは別個の存在であり,それぞれ独自の発展過程をもつのだとする考え方といえる。しかし,カミとタマとは,ともに人間にとって,人知を超える存在であり,現象的にはその機能面の相違は認められるにしても,別個の存在とは理解しにくい。たとえば古代の氏神を考えた場合,氏神は,氏族の族長の権威を背景として,かつ公的な性格をもった存在として,多くの文献には記されている。氏神の個性は,明らかに,氏神をまつっている集団の性格を反映していると推察される。氏神は,氏族を守護する典型的な守護霊の機能をその基盤にもっているのである。ところでタマの立場から見た場合,古代には和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)の対立があった。タマが人知を超えた力を発揮すると,それはモノノケ(物の怪)の出現ととらえられ,別にタタリ(祟り)と表現された。平安時代のタマの発現とその活動の中に,怨霊や御霊(ごりよう)を認めそれを祟りとみて畏怖したのは,モノノケすなわち霊威に対するその時代の合理的解釈とみなされる。本来は,荒魂の活発な活動が霊威であり,霊威を鎮めることによって,和魂に変化することが,守護霊の大きな前提だといえる。したがって,守護霊としての氏神は,族長など氏族(集団)の指導者の霊魂が,霊威を発揮した際集団の利益がマイナスにならないように機能することが期待されている。すなわち荒魂の力が,和魂に変化することは,和魂がカミとしてまつられる過程を予想させるのである。一般には,人間によって,タマの荒魂の部分を鎮め,和魂を成立させるのである。この現象がカミ崇拝の基本型としてとらえられるものである。

カミの語源については,さまざまな説がある。神は上=カミにあるからカミだとする考えは,江戸時代からあったが,国語学的には否定されている。すなわち神と上は同音語であるから同じ語源だとする考え方は,上代特殊かなづかいの面からいえば,神のミは乙類となり,上のミは,甲類に属して,互いに混同しないとされている。神のカミはクマからきたとする説もある。神に供える米はクマシネ(供米)と表記されるが,供米と表現される以前に,クマには隠れるという意味があった。すなわち,奥深く隠れた存在をカミとし,そこから発現してくる力を畏怖したものとみている。本居宣長は,カミを迦微とし,〈何にまれ,尋常ならずすぐれたる徳のありて,可畏(かしこ)き物〉(《古事記伝》)とした。とくに本居説の特徴は,カミが,人格的に優れた有徳者だけに限定されず,貴いものも賤しいものもあり,善きも悪しきもあると指摘した点である。自然界の森羅万象,たとえば山川草木などは,それらがすぐそのままでカミとはならない。しかし〈可畏き物〉と認識されればカミに認められる。何物かが人知を超えたときは,いっさいがカミとして機能しうるのであるが,その前提に,霊威を発するタマがそこに宿っているかどうかがキーポイントとなってくる。人間の意識裡には,カシコキ感情を引き起こす物には,タマの発動が顕在化していることが必要であった。たとえば人霊を考えた場合,死霊の霊威は強力だと考えられており,強力な霊威の原因である恨みの感情が発見されると,それを除去するための祭りが行われる。祭りが行われることによって死霊のタマがカミに転換していく契機があった。こうした事例は,時代の推移とともに,多様な展開を示しているのである。タマにおける荒魂と和魂の対立は,そのまま,カミにおける貴と賤,善と悪といった関係に反映してくる。

 奈良時代末期から,物の怪,祟り,御霊などがしだいに表面化した(御霊信仰)。とりわけ御霊神は,畏怖されたタマが,国家的な次元での祭りをうけたことにより,カミ=神に転化したもので,その原因は当時発生した疫病によっている。平安時代には,多く疫病流行によってもたらされる社会不安は,御霊の祟りとみなされたが,それ以後も疫病神・行疫神は悪神の代表的事例として,信仰されている。悪神は,神送りの儀礼が伴っており,かならず追放されねばならない。疫病送りの民俗儀礼は,災厄をもたらすカミを,まじないを用いることによって除去することを目的としている。注目されることは,悪神は追放されて祟りを消滅してしまうと,善神になってまつられている点である。江戸時代における福神の機能をもつ神々の本体が,災厄をもたらす厄神であったという伝承は,意外に多い。これは,荒魂→和魂,御霊→和霊のプロセスと軌を一にすることを示している。しかしそれは同時に,カミが,二つの相反する要素を併存させて成り立つという見解にも連なる。つまり福神と厄神,御霊と和霊といった対立する要素は,本来二にして一であるというカミのもつ両義性にもとづいて顕在化したものといえる。その意味では,カミは結合原理である。さまざまなバリエーションに富むタマの諸活動が,統合化されて,カミとして現れるという見方が成り立ってくる。

カミが神と表現され,神道の枠組に入った段階で,一つの特色が生じた。それは(けがれ)の観念である。穢は,死穢・血穢で代表されるが,それを極端に忌避するところに,神の存在を求めようとする。神道は穢が生ずれば,災厄が起こるという現象を〈枉(禍)津日(まがつび)神の御霊〉の活動とみて,仏教との異質性を強調しようとした。〈枉(禍)津日神〉は,記紀に出現する悪神と考えられるものであるが,解釈の仕方によって,汚穢(おわい)による災厄を除去する力をもつ神であり,悪を払う善神だとする見方も成り立っている。神道の神観念の中には,悪神の存在を否定しようとする志向がある。これは,神をまつる道としての神道が,汚穢を強調したことに対応している。

 したがって,人間の一生の大事である出産儀礼は,出産に伴う血穢があるため,神道の神は,これを不浄とみなしてタブーの対象とした。ところがウブガミ(産神)と称される出産時の守護霊は,穢を忌避せず,妊婦と赤児を守護するカミである。神道の神が,死穢については仏教に,産穢についてはウブガミにそれぞれ機能をゆだねていることがわかる。神とカミの関係は,神道的な神が,歴史的には神社神道に包括されたのに対し,民俗的なカミは民俗神道に包括されるという民俗学上の解釈も成り立つのである。

 民俗的なカミは,古代と記紀神話の中には,ほとんど位置づけられていない。ウブガミをはじめ,田のカミ,山のカミ,市のカミ等々は日本の民俗文化の中にさまざまな形で伝承されてきている。それらは個性的ではなく集団的であり,いわゆる大社名社の祭神としてまつられない傾向をもつ。民俗的なカミの一つの特徴は,一定の空間に常在せず,祭りに際して出現するが,とりわけ,異装をして具象化された姿をとっていることである。たとえばその典型的事例は,正月の来訪神であり,東北のなまはげから,沖縄のアカマタ・クロマタに至るまでよく知られている。異装の来訪神については,民俗文化における山と里の交流という背景が考えられている。村里に定着して,稲作農耕に従事している平地民と,山中奥深くで漂泊していた山人(やまひと)(山民)との間の文化交流は,歴史的伝統をもっている。稲作農耕民の祖霊信仰には,田のカミと山のカミの複合した形が見られるが,この正月の異装の神は,山人の信仰の対象であった山中のカミの具象化した姿であり,この存在は,里の農民たちにとって,畏怖されていたと思われる。そして村里の稲作農民の正月儀礼の中に,異装の来訪神として出現するのは,山人の信仰が平地の民俗的なカミに投影した結果と思われる。

 神もカミも,祭りの対象となることによって具体的個性が人間に理解されることになる。天皇を司祭者として国家次元でまつられる神と,民衆の日常次元でまつられるカミとの関係は,前者がしばしば後者を包摂しようとした歴史的事実はあるが,結果的には,民俗的次元のカミが現代の国民生活の中に生きていることはたしかである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神」の意味・わかりやすい解説


かみ

もっとも広い意味では、宗教的行動の対象はすべて神とよばれるが、厳密な意味では、人格的で個性がはっきりして、固有名詞をもった超自然的存在をいう。しかし、宗教によって、神の形態や内容は多種多様である。

[藤田富雄]

神の語義

カミは上(かみ)であるとする語源説が有力であったが、奈良時代の発音では、カミ(神)はKamï、カミ(上)はKamiで別であったから、現在では否定論が多い。鏡(かがみ)の略、隠身(かくりみ)の転訛(てんか)、朝鮮やモンゴルの「汗(カン)」と同源、アイヌ語の「カムイ」と同根など、語源については諸説があるが、本居宣長(もとおりのりなが)が「迦微(かみ)と申す名義(なのこころ)はいまだ思ひえず」とし、「旧(ふる)く説けることども皆あたらず」といっているように、カミの本来の意義を語源的に断定することは、きわめてむずかしい。そこで宣長は実際の用例から神の定義を帰納的に導き出した。「さておよそ迦微とは、古御典等(いにしへのふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、そを祀(まつ)れる社(やしろ)にまします御霊(みたま)をも申し、また人はさらにもいはず、鳥獣木草のたぐひ海山など、そのほか何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云(い)ふなり」といい、しかも「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの優れたるのみを云ふに非(あら)ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神とは云ふなり」と『古事記伝』巻3に説いた。

 この定義は、日本の古典に現れている神々が、人間の知や理を超えた非合理的な性格をもつことをとらえていると同時に、神々に対して人間が畏敬(いけい)の情をもって「ただその尊きをとうとみ、可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みてぞあるべき」態度をもとらえている。この定義は、カミを機能の面からきわめて広い意味で一般的に規定した卓見であり、ドイツの神学者オットーのヌミノーゼNuminoseの「畏怖させる神秘」という分析を想起させるが、キリスト教などにみられるような、人間とはまったく異質的な「絶対他者」という観念のないことが注目される。

 漢字の「神(しん)」は、祭壇を表す「示」と電光の形を描いた「申」からなり、祇(ぎ)(地のカミ)、鬼(き)(人の魂)に対し「天神」をさす。カミに神という漢字を用いたため、中国の上帝という超人的な意味が加えられ、明治以後、テオスtheos、デウスdeus、ゴッドgodなどの訳語として用いられたため、ギリシア哲学の最高の統一原理という抽象的意味が加わり、キリスト教の唯一絶対神という性格も加味されるようになった。

[藤田富雄]

カミの概念

宗教学の立場からみると、カミという日本語には二つの異なった性質が含まれている。一つは、ミズチ(水の威力)、イカヅチ(雷の威力)などの「チ」、ムスヒ(生産の威力)、タマシヒ(霊魂の威力)などの「ヒ」で、ちょうど磁力のように、宇宙全体に行き渡っている目には見えない超自然的な呪力(じゅりょく)である。程度の差はあっても、人間にはいうまでもなく、雷電風雨などの自然現象、山川草木岩石などの自然物にも含まれていて、しかもかならずしもそのものに固有ではなく、物から物へと転移したり、伝染したりすることができると信じられている。メラネシア語に由来する「マナ」manaにあたる。もう一つは、モノノケ(物怪)、モノイミ(物忌)などの「モノ」、ヤマツミ(山津見)、ワタツミ(海津見)などの「ミ」、コタマ(木魂)、イナダマ(稲魂)などの「タマ」で、特定の自然物や自然現象と離すことのできない関係にあるが、個性のはっきりしない「精霊」spiritである。高御産巣日神(たかみむすびのかみ)や大山祇神(おおやまつみのかみ)のように、古語のカミにはマナと精霊の二つの性質が明らかに含まれている。

 マナの流動的に転移して万物に作用する性質が一般化されるときには、マナは、宇宙を支配する法則、ないしは宇宙の根本原理にまで高められる。古代インドの梵(ぼん)(ブラフマンbrahman)、中国の道(タオtao)、仏教の法(ダルマdharma)、ギリシアのロゴスlogosなどの観念はその例で、非人格的な力の系列に属するこれらの観念は、人間の崇拝対象とはなっていても、宗教学における神の概念には入れない。厳密な意味では、精霊の観念のような人格的な系列に属するものだけが、神の概念に入るのである。

 人間にタマ(霊魂soul)が宿っているように、万物に精霊が宿っていると信じる信念体系は「アニミズム」animismとよばれている。悪魔、天狗(てんぐ)、一寸法師(いっすんぼうし)、妖精(ようせい)などのように、現実の世界にいても感覚ではとらえられないと信じられているものは「霊鬼」demonとよばれ、天照大神(あまてらすおおみかみ)、ゼウス、ヤーウェなどのように、現世を超越しているが個性がはっきりして固有名詞をもっているものは「神」(ゴッドgod)と名づけられる。これらの精霊、霊鬼、神は、もともと別のものではない。人間生活と密接な関係をもっている自然物や自然現象はいうまでもなく、高山や大海原のように人間に対して神秘感を与えるものなどが、人間の禍福を左右する人格や意志をもつものとして表象されると、自然神として崇拝対象になることが多い。異宗教が接触し習合して、霊鬼が神に昇格することもあれば、逆に、神が霊鬼に格下げになることもある。日本の習俗で、三十三回忌(き)や50年祭が済むと「弔上(とむらいあ)げ」といって死霊が祖先神になると信じられたり、ヒンドゥー教の主神シバが仏教を守護する不動明王とされたりするのは、その好例である。したがって、宇野円空(うのえんくう)が、精霊、霊鬼、神などを一まとめにして「神霊」と名づけているのは適切である。

[藤田富雄]

神と仏

日本では昔からカミホトケといって、神仏を一体と考える傾向があった。仏とは、覚者、すなわち非人格的な法を悟った人間のことで、けっして神と同一ではない。しかし、欲望に身をまかせて迷っていることと悟りを開くことを、人間の生と死の関係と同じように考え、人間は死ぬと欲望をもたぬから悟りを開いたのと同じ状態になるという素朴な思考が生まれた。そこで、人間は死ぬとホトケになり、弔上げが済むとカミになるとし、単純に神と仏を一体化して把握するようになったといわれる。本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想や反本地垂迹思想により、神仏が習合して一体となったという考え方もあるが、また、目に見えないカミの憑依(ひょうい)した依代(よりしろ)が、目に見えるホトケの救済力の具象化された像と同一視されたためであるという説もある。神と仏との関係は、このようにきわめて複雑で、まだ定説はない。

[藤田富雄]

分類

神霊の数と性格によって、宗教を多神教、二神教、一神教、汎(はん)神教に大別する。日本の神道の八百万(やおよろず)の神々のように、多数の神々が信じられているのが多神教であるが、神々の恋愛、結婚、親子、家族、親族などの関係によって、ギリシア・ローマ神話や日本の記紀神話のような神統記theogonyという系図ができたり、社会的、政治的な原理に基づく主神を中心とした主従・上下の関係によって神会pantheonという神々の組織ができる。ギリシア宗教のゼウスのように、とくにかわらない主神が認められるのを単一神教henotheismとよび、インドのベーダの神々のように主神が交互に入れ替わるのを交替神教kathenotheismと名づけている。

 二神教は、ゾロアスター教アフラ・マズダーアングラ・マインユ(アフリマン)のように、善悪二神の対立や支配を説くものである。一神教には、他の民族の信奉する神々には干渉しない民族的一神教と、他の諸神を否定して、民族の別なく世界にはただ一つの神しかいないと主張する普遍的一神教とがある。ユダヤ教は前者に、キリスト教、イスラム教は後者にあたる。個々の人格神ではなく、あらゆる実在の根源である抽象的な神性が、宇宙の万物に宿り、万物はその神性の現れであるとする宗教的、哲学的な見方が汎神教である。他宗教の諸神をすべて混合して、抽象的な万有神pantheosに帰したローマ帝政時代のシンクレティズムsyncretismや、インドのウパニシャッド哲学の梵我一如(ぼんがいちにょ)brahma-ātoma-aikyamなどは、その好例である。

 神霊の本体によって、自然神と人間神とに分けられる。自然物や自然現象を神格化したのが自然神で、天・地・日・月・星・山・川・水・火・風・雷の神をはじめ、動植物の神もある。死者や祖先などの人間を神格化したのが人間神で、父神、母神、祖先神、英雄神などのほか、プロメテウスに代表される文化祖神もある。牧畜民族では天父神、農耕民族では大地母神の崇拝が多くみられる。

 また、神霊の機能によっても分類できる。人間生活の一面だけに関係している職能神には、生老病死の神のほか、農業神、狩猟神、漁労神、商業神、工業神、航海神、武神、文神などの職業に関係する神や、縁結びの神、安産の神、交通安全の神などの日常生活に密着した神々が多い。氏神(うじがみ)、部族神、民族神などのように、特定の個人や集団の幸福を守るのが守護神であり、慣習を維持し、社会を統制するのが監視神である。さらに、創造神は、天地を創造して宇宙に目的と秩序とを与える。その支配力が絶大で、さまざまな神々の統一の中心になるのが至上神であり、直接に人事に関係しないときには隔絶神となることもある。

 神霊の姿によって、人間形態神、植物形態神、動物形態神、半人半獣神、無形の神に分類することもできる。半人半獣神には、ギリシアのケンタウロスのように上半身が人間で下半身が馬の形をしたものもあれば、エジプトのホルスやセトのように頭が鷹(たか)や獣(けだもの)で人身の神もある。ユダヤ教やイスラム教では、神の姿をもので現すことを偶像崇拝として禁止しているので、神は形をもたない。

 神霊は、特定の時代や場所で文化をもって生活を営んでいる個人や集団に、それぞれの形態で存在しているのであって、けっして抽象的にどの社会にも同じ形態で存在しているのではない。しかし、具体的にはそれぞれの社会の構成要素でありながら、社会全体を秩序づけ、意味づけ統合する役割を果たしている。たとえば、アステカの母神トナンツィンの信仰は、スペインの征服によって破壊されたが、この母神はキリスト教の聖母マリアと習合し、「グアダルーペの聖母」として再生した。この聖母はメキシコの守護聖母として崇敬され、メキシコ独立運動の象徴として機能したが、現在では広くラテンアメリカを統合する土着文化復興主義indigenismoの象徴となっている。

[藤田富雄]

神の存在

信仰の立場から、神の存在を大前提にして、神とは何であるかを問うのは神学(教学)である。しかし、神学が大前提として肯定している神がはたして存在するか、どのようにして神を知ることができるかという疑問を、理性の立場から取り上げたのが宗教哲学である。その答えは神の存在の証明という形でなされ、その代表的なものは、本体論的証明、宇宙論的証明、目的論的証明である。このほか、道徳論的証明、歴史的証明、実用主義的証明などがあり、現在では体験的証明が有力で、分析哲学からの試みも注目されている。また、宗教学の立場では、神そのものは観察できないが、神を信じている人々が神をどのように考え、どのような行動をしているかは観察できるとし、だれでも観察できる事実に基づいて神観念を把握しようとしている。

[藤田富雄]

神観念の変化

世界の諸宗教のなかでは、非人格的な力の系列に属する宗教よりも、人格的な神霊の系列に属する宗教のほうが多数である。しかし、同じ神霊についての理解の仕方も、他の宗教との接触によるだけでなく、自宗教の内部における社会、政治、経済などの変動に影響されて融合、分裂、競合、展開、衰退、消滅するものもある。一般に昔から変化しないと考えられている世界宗教の神観念においてでさえも、具体的な性格の神から抽象的な究極的価値を担う神へと、神観念の重点が移ってゆく傾向がみられる。

 人格神の代表であるキリスト教を例としてみると、全知全能という特殊な能力をもった神から人間の生き方を指導する神へ、奇蹟(きせき)を行う神から啓示を与える神へ、支配者としての神から理想像としての神へと、神観念が変化していることは否定できない。自然科学が発達して自然界は自然法則に基づいて秩序正しく運動しているという考え方が常識となると、自然法則を破って奇蹟を行い、特定の人に恩恵を与える神は信じられなくなる。とくに最近の欧米における急進神学は、20世紀前半を風靡(ふうび)した神中心のバルト神学との対決を目ざし、伝統的ユダヤ・キリスト教の天に在(ましま)す父なる神の死を宣言し、神のないキリスト教を主張するまでになっている。この運動の背景には、神に誠実になろうとして神を求めれば求めるほど、宇宙を超越してそれを支配する人格神を否定せざるをえなくなるという逆説を示して、実存的な生き方を求める試みがあるし、キリスト教を非神話化して、究極的関心や存在の根拠というような術語で、新しく神を定義し直そうとする試みもある。このような傾向がしだいに展開してゆくと、神観念の人格性はますます失われ、抽象的な神性から仏教の法という非人格的な観念に近くなってくる。

 それに対して、浄土教における阿弥陀仏(あみだぶつ)のような諸仏諸菩薩(ぼさつ)には、人格神の色彩が強く認められる。仏教の中心は非人格的な法であるが、法を悟った仏陀(ぶっだ)は、人間の側からみれば法の体得者であり、法の側からみれば法の体現者である。法の体得者としての法身仏(ほっしんぶつ)が永遠であれば、法の体現者としての現身仏(げんじんぶつ)も永遠であり、法が人格として現れるのは釈迦(しゃか)だけではなく、多くの仏陀がありうるはずである。このような考え方で生じたのが諸仏諸菩薩であるから、キリスト教とは反対に、非人格的なものが人格的なものへ移行しているといえる。

 このように、神観念はけっして固定したものではなく、変化してやまないものである。日本の神観念はきわめて多義的であいまいであると批判されているが、非人格的、人格的な両面を包括できる寛容な性格をもつ神観念は、日本人の重層的で柔軟な思考から生まれたもので、一神教のように排他的でないという特徴がある。したがって、カミという語の使用にあたっては、その意味や内容を限定して、混乱を生じないように配慮する必要がある。

[藤田富雄]

『R・オットー著、山谷省吾訳『聖なるもの』(岩波文庫)』『R・R・マレット著、竹中信常訳『宗教と呪術』(1967・誠信書房)』『宇野円空著『宗教民族学』(1949・創元社)』『竹田聴州著『祖先崇拝』(1957・平楽寺書店)』『藤田富雄著『宗教哲学』(1966・大明堂)』『東北大学文学部日本文化研究所編『神観念の比較文化論的研究』(1981・講談社)』『山折哲雄著『神から翁へ』(1984・青土社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神」の意味・わかりやすい解説


かみ
theos; deus; god

宗教信仰の対象。一般に絶対的,超越的な存在とされ,原始信仰の段階では,人間をこえた力と考えられ,高度宗教では超越的力を有する人格的存在とされるのが普通。このような神には,善神のみならず悪神をも含む。また西洋の神秘主義や東洋の宗教のうちには,神を存在としてではなく,存在の根拠あるいは無とみる傾向もある。崇拝対象の相違によって多神教,単一神教,一神教などの種々の形が現れる。神に対する人間の態度は一般に信仰,信心と呼ばれ,神学はこの信仰を理性的に理解しようとする試みであるが,現在再び合理性をこえた原初の信仰復興への動きもある。日本の神という言葉は,漢字の「神 (しん) 」に日本語の「かみ」をあててつくられたもので,各種の観念が複合され,内容も複雑である。たとえば本居宣長は森羅万象に「かみ」の存在を認めており,すべての魑魅魍魎 (ちみもうりょう) をも神とした。またアマテラスオオミカミの例にみられるように,神は族長の権威を背景に公的威厳性をもち,集団の性格を反映しているもののようである。神の名は地名,人名,物名,抽象名詞の4種に分れ,これらを自然神,人格神,機能神と分類している。一方,集団本位の神 (氏神,産土神,鎮守神など) と個人信仰に基づく神 (荒神,えびす,大黒,水神,道祖神など) とにも区別される。

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百科事典マイペディア 「神」の意味・わかりやすい解説

神【かみ】

その実在を信じる立場からは,全知・全能・至善・至純・永遠といった最大級の言辞をもって形容され,世界の創造者,万物の根拠,救済者などと表象され,崇拝される超人間的な霊の称。ギリシア語theos,ラテン語deus,英語god,ドイツ語Gott,フランス語dieuなど。その存在を認めないものを含め,神観念の内容は文化と歴史に応じて多様である。
→関連項目神の存在証明

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【悪】より

…西洋では,古代キリスト教の教父たちがこの問題と取り組んでいる。キリスト教の正統教義では,絶対者としての神が宇宙と人間を創造したと考えるので(〈無からの創造〉),神はなぜ悪をつくったのかという疑問が生まれる。言いかえれば,神はいっさいの悪の性質を持たない最高善の存在であるのに,その神が創造した世界に悪が存在するのはなぜなのか,という難問である。…

【悪魔】より

…仏教に由来する語で,仏道をさまたげる悪神,人にわざわいを与える魔物を指す。魔は梵語〈マーラ(魔羅)〉の略で,人を殺したり人心を悩ませる悪霊,魔物であり,江戸時代には多く天狗を指した。…

【アッラー】より

…イスラムにおける唯一なる神の呼称。語源的には,アラビア語で神を意味するイラーフilāhに,定冠詞al‐が付加されたal‐ilāh(the God)が同化してアッラーフ(アッラー)Allāhになったといわれる。…

【神の存在証明】より

…〈神は存在するか〉という問いは科学的方法によって探求され,解答が発見される種類の問いではないが,人間の発する諸々の問いの根底にひそむ抑えがたい問いであり,すぐれて〈実存的〉ないし〈哲学的〉な問いである。神の存在は霊魂の不滅や意志の自由とともに形而上学の根本問題の一つとされてきたが,カントは形而上学のこうした思弁を人間理性の越権行為として退けた。…

【宗教】より


【宗教をどのように考えるか】
 1970年代のことであるが,月面に立ったアメリカの宇宙飛行士12人のうち3人までが,地球に帰還したのち宗教的な仕事に就いた。神にふれた経験を語り,心霊科学に関心を寄せるようになったのである。彼らはおそらく原始人類がこの地球上で感じたであろう恐怖と神秘とを,宇宙空間で体験したにちがいない。…

【白】より

…また光明の色として聖なる者と結びつく。キリスト教では,〈キリストの変容〉に際してその衣は白く輝いたといわれるが(《マルコによる福音書》9:3ほか),《ヨハネの黙示録》にしばしば記されている神の姿は,その頭と髪の毛は白い羊毛に似て雪のように白く(1:14),ときには白雲に(14:14),白い玉座に(20:11),あるいは白馬に(19:11)乗った姿である。神の使者あるいは侍者である天使も通常白い衣をまとい,義人聖人もまた同じである。…

【神道】より

…日本固有の民族宗教。日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた仏教や儒教などに対して,それらが伝えられる前からあった土着の神観念にもとづく宗教的実践と,それを支えている生活習慣を,一般に神道ということばであらわしている。日本民族の間にあった信仰は,農耕,狩猟,漁労などの生活に対応してさまざまであり,地域的にも多様な性格をもっていたと考えられるが,稲作の伝来を契機に政治的な統一が進むにつれて,水稲の栽培を中心とする農耕儀礼を核として数多くの神々をまつる現世主義的な宗教が形成された。…

【絶対者】より

…他のものに依存せず,自立的・自発的で自在であり,条件や制約による制限を知らず,完全で究極的な存在をいう。古代以来のフュシス,コスモスとしての宇宙,善のイデア等の実体,一者(ト・ヘンto hen),中世以来の神などは,人間を超越する勝義の絶対者である。近世以降では,精神,理性,自我性,人間性,さらには人間に無条件の服従と承認を迫る理念,知・信念などが,人間界における絶対者として登場する。…

【日本】より

…◎―文化の諸分野については,〈口承文芸〉〈日本文学〉〈日本美術〉〈日本建築〉〈日本音楽〉〈演劇〉〈芸能〉〈〉〈狂言〉〈歌舞伎〉〈新劇〉〈日本映画〉など。◎―宗教については,〈宗教〉〈〉をはじめ〈神道〉〈仏教〉〈民間信仰〉〈新宗教〉など。◎―生活文化については,衣では〈服装〉〈着物〉,食では〈食事〉〈日本料理〉,住では〈住居〉〈日本建築〉など。…

【柱】より

…使用する場所によって名称が異なり,外回りの側(かわ)柱と,それより1間内側の入側(いりかわ)柱,身舎(母屋)(もや)・庇(ひさし)の別があるときはそれぞれ身舎(母屋)柱・庇柱,そのほか裳階(もこし)柱,向拝柱,門や塀における本柱と控柱などといい,同じ側柱でも隅柱とそれ以外の平柱を区別する。さらに建物の種類により,仏堂では外陣柱と内陣柱,仏壇後ろの来迎柱,塔では入側柱に相当する四天柱,相輪を支持する心柱(檫),書院や民家における床の間の床柱,民家の中心的位置にある大黒柱,さらに特殊なものとして神社本殿で,神明造の妻側に離れて立つ棟持(むなもち)柱や,大社造の中心にあるうず柱などの名称がある。 断面の形状をみると,円柱と方柱のほか六角柱,八角柱,長方形の鏡柱や片蓋(かたぶた)柱,角に自然の丸みを残した面皮(めんかわ)柱などがある。…

【人神】より

…人間の霊魂が神化した状態で,人が神としてまつられる現象を前提として成立した神格。人の神化に際しては,(1)人が死後神になる場合と,(2)人が生前に神としてまつられる場合とがある。…

【妖怪】より

…妖怪の総称に相当する民俗語は,大別して,東日本に分布する〈モー〉系のモー,モーモー,モモンガー,モッコ,アモ,アンモなどと,西日本に分布する〈ガ〉系のガガマ,ガガモ,ガンゴー,ガゴジ,ガモなどに分けられる。霊的存在ないしは神秘的力の総称である〈もの〉の示現としての〈物の怪(もののけ)〉は,歴史的文献に現れた妖怪の総称の代表といえる語であり,神の示現としての〈かみのけ〉と対比される場合には邪悪な〈もの〉の発現を意味していた。この語は平安時代に多用され,その正体のほとんどが恨みをもつ生霊や死霊であって,鬼の姿でイメージされた。…

※「神」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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