荘園(日本)(読み)しょうえん

百科事典マイペディア 「荘園(日本)」の意味・わかりやすい解説

荘園(日本)【しょうえん】

8世紀から16世紀にわたる,古代・中世社会の基本的な土地所有・経済制度。荘が営田の基地に設置された屋舎をさすのに対して,田地・溝樋・倉屋・農具・耕人などの総体をさすときには庄と呼称されることが多かったことから,庄園とも記される。〔初期荘園墾田地系荘園〕 723年の三世一身(さんぜいっしん)法,743年の墾田永年私財(こんでんえいねんしざい)法により,制限つきではあったが,貴族・豪族などの大土地所有が国家による公認のもとに急速に展開した。749年の大仏完成記念による奈良東大寺など大寺院の墾田地の占有公認も,大土地所有を促進した。9世紀になると,天皇家も財政を補うために国衙(こくが)に命じて空閑地(こかんのち)・荒廃田を開墾し,勅旨田(ちょくしでん)をさかんに設定した。貴族や寺院も使節を現地に派遣して開田と経営にあたらせており,初期荘園は主として墾田を契機とすることから,墾田地系荘園または自墾地系荘園といわれる。収穫物や農具などを収納して経営の基地(荘所あるいは荘とよばれる倉庫などを含む建物)を設営し,耕営にあたっては,所有する奴婢(ぬひ)の労働力や在所周辺の百姓らの雇用労働力を利用した。荘園の規模は,畿内では数町歩ほどの小規模なものが多く,遠隔地にいくにしたがって大規模化する傾向があった。8世紀末から9世紀にかけて,国の課役(かやく)を忌避して浮浪(ふろう)する百姓が増大したが,荘園領主浮浪人を収容して労働力とした。かれら浮浪人は,荘園領主の政治的権威を盾として調(ちょう)・(よう)などの労働力課役を逃れた。これによって班田を基本とする律令(りつりょう)制的土地制度は動揺を繰り返すこととなる。〔中世荘園=寄進地系荘園〕 9世紀末−10世紀初め頃から,地方豪族は開発した田地を中央の有力権門勢家(けんもんせいか)に寄進し,国郡使の入部(にゅうぶ)を拒否しはじめた。902年には,班田を励行するとともに寄進行為を禁止し,寄進によって成立した荘園を停廃する法令(延喜(えんぎ)荘園整理令)が発布された。しかし班田はこれ以後行われなくなり,たび重なる荘園整理令をはねのけて,寄進地系荘園が全国各地に成立するようになった。この動向を背景に権門勢家は不輸租(ふゆそ)の特権(田租免除,徴税権の国家からの委譲)を要求し,これを実現させたことによって,11−12世紀には,官省符荘(かんしょうふしょう)(太政官符(だいじょうかんぷ)・民部省符(みんぶしょうふ)によって免租された荘園)と国免荘(こくめんのしょう)(国司(こくし)の裁定で免租された荘園)とが盛行した。院政期に入ると,院による荘園承認が行われるようになり,白河院鳥羽院後白河院らの認めた荘園は三代御起請地(さんだいごきしょうち)として不輸不入(ふゆふにゅう)などの特権が重視された。1156年の保元(ほうげん)新制は,荘園の廃立権をもつのは天皇だけであること,荘園・公領の分野をあいまいにする出作りや加納(かのう)(荘園拡大の一手段で,公田等を本免田の付属地として荘内に取り込むこと)を禁止することを規定し,中世的土地所有のあり方(荘園公領制)を確立した。〔中世荘園の支配構造〕 寄進地系荘園では,被寄進者の権門勢家は本所(ほんじょ)(本家)・領家(りょうけ)とよばれ,毎年一定の得分をうけとり,その代償として,国司・郡司の介入を排除するなどの保護を寄進者に行った。寄進者は,下司(げし)・預所(あずかりどころ)・公文(くもん)・田所(たどころ)などの荘官として,実質的に土地所有と経営を行った。得分権は(しき)と称され,本家職・領家職・預所職・下司職・名主(みょうしゅ)職・下作(げさく)職などの諸職が重層的に存在した。これが〈職の体系〉と呼称される荘園制的支配構造の特徴である。当初,荘園領主は田地の地子(じし)(賃租料)のみを収得していたが,不輸不入権を得るにつれて,調・庸や徭役(ようえき)にあたる公事(くじ)をも収取するにいたった。地子は斗代(とだい)ともいわれるように,段別3斗〜5斗ほどであったがやがて1石余に及ぶようになった。これは初期の地子に田租(でんそ)分が加算されたもので年貢(ねんぐ)とよばれた。公事として,平野部の荘園からは瓜・芋・豆など,山間部の荘園からは栃・栗・茸など,海辺部の荘園からは塩・干鯛・海藻類が納入された。徭役のながれを引くものに,権門勢家の屋敷・宝蔵などの警固にあたる兵士役があり,このような年貢と公事によって荘園領主の生計,年間行事が維持された。荘園領主による荘園経営は,検注(けんちゅう)によって荘内田畠の地積や,百姓らの家屋をも在家(ざいけ)として把握することによって確立した。本所・領家は毎年春,勧農使(かんのうし)を現地に派遣して,現地の荘官とともに,田畠を百姓に割り当て,種子・農料を与え,用水を整備するなどして,満作を実現することに全力を傾注した。しかし13世紀には荘園経営が行き詰まり,荘園制的支配秩序は変質しはじめた。〔荘園の変質と崩壊〕 荘園制変質の要因は,武士の成長による鎌倉幕府の成立と,幕府による守護・地頭(じとう)の設置,および荘内に生活する在家農民の成長である。荘園の下司の権能を継承した地頭は,13世紀には年貢を抑留(よくりゅう)し,下地中分(したじちゅうぶん)によって荘園下地の私領化を進めた。14世紀に入るや地頭の荘園侵略が激化し,悪党(あくとう)(鎌倉時代後期から南北朝期にかけて,支配権力に反抗した武装集団)勢力の跳梁(ちょうりょう)は荘園支配の秩序を麻痺させていった。南北朝内乱期,守護は半済(はんぜい)を実施することによって,地頭・国人(こくじん)らを被官化しながら,年貢を兵粮(ひょうりょう)として奪取し,荘園領主に打撃を与えた。15世紀には,公家領荘園の大半は守護や守護代に押領されている。一方,荘内で成長した農民層は,14−15世紀には,寺庵・道場・講などを中核に結集を強めて惣村(そうそん)を成立させ,荘民は年貢・公事の減免や非法代官の更迭(こうてつ)などを求めて逃散(ちょうさん)や一揆(いっき)を繰り返し,寺社領荘園を崩壊に追い込んでいった。こうした動きに対して15世紀中頃から16世紀にかけて荘園領主権力は代官請負(だいかんうけおい)制を改廃して直務(じきむ)支配を強化し,荘園の崩壊をくいとめようとしたが,その趨勢(すうせい)をとめることは不可能であった。 16世紀後半,全国統一をすすめつつあった織田信長は,検地によって錯綜した荘園知行(ちぎょう)を整理しようとしたが業なかばで倒れた。信長意向豊臣秀吉に受け継がれ,全国規模の検地が展開された。その結果石高制基準とする徹底した村切(むらぎり)の実施によって,荘園制的支配秩序は崩壊した。
→関連項目朝河貫一荒川荘一円知行浮免請所延喜・天暦の治延暦寺焼討相賀荘大館氏大野荘(大分)大番舎人小宅荘小山田荘垣内加地子葛川葛野荘鎌倉時代官省符荘関東御領勧農使官物下文国衆椋橋荘皇室領神野真国荘公領久我荘近木荘国衙領墾田雀岐荘沙汰人算(散)用状地下請寺社領賜田地頭請清水三男守護請荘園絵図摂関政治曾禰荘田植田仲荘土一揆問丸名手荘日本野原荘春木荘班田収授法日置荘人吉荘封戸船木田荘分米【ぼう】示松浦荘三瀦荘南部荘宮川荘名・名田村櫛荘役夫工米輸租田温泉荘横江荘立券荘号若山荘和佐荘輪田荘

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