目次 性質 製法 用途 利用の歴史 貨幣としての金 日本の金生産 現代の生産と取引 周期表第ⅠB族に属する金属元素。純粋な金属として人類が最初に知った金属の一つであると考えられている。
金の原子記号Auはラテン語のaurumによるものであり,これはヘブライ語の〈光〉を意味するorまたは〈赤色〉を意味するausからきたものとされ,フランス語でもorである。英語gold,ドイツ語Goldは,ともにサンスクリットの〈輝く〉という意味の語に由来するとされている。日本では古くから黄金(おうごん)/(こがね)と呼ばれ,五色の金の一つとされている。
古くから使用された理由は,大部分単体の形で産出するからである。これを自然金という。自然金の品位は65~99%程度で,おもに銀との合金(エレクトラム)である。石英脈中に含まれることが多く,山金(やまきん)と呼ばれるものはこれである。大部分は岩石の風化によって砂金 として川砂中に存在する。日本でも椀掛けといって,木製または金属製の揺り鉢に入れ,水を加えて揺り動かして砂や粘土と選別する方法が古来使われてきた。しかし現在は砂金の産出量はきわめて少量で採算がとれなくなっている。
性質 美しい黄色の光沢ある金属で,〈あかがね〉の呼名をもつ銅とともに代表的な有色金属である。しかし状態によって外見が異なり,融解状態では緑,蒸着膜は緑から青,また溶液を塩化スズ(Ⅱ)によって還元すると赤紫色コロイドとなる。これをカシウス金という。面心立方の等軸晶系で,格子定数はa =4.0786Å。電気伝導度,熱伝導度は大きいが,いずれも銀,銅にやや劣る。展性,延性は金属中最大で,0.1μmの厚さの金箔 にまで広げることができる。また1gを2800mにも延ばすことができる。これは直径5Åの金線に相当する。純金は軟らか過ぎて実用には不便なことが多く,ふつうは合金として強度を増している。合金中の金の品位はカラット単位で表す。純金は24カラットである。
貴金属の一つであって酸化に対してきわめて安定。王水以外の酸には溶けない。シアン化カリウム水溶液には溶ける。酸素とは高温でも反応しない。塩素,臭素とは反応して結合する。酸化数3の化合物のほうが安定である。錯体でないAu(Ⅰ)化合物はすべて水に難溶性であり,AuCNを除いては不均化してAu(Ⅲ)とAu(0)となる。金化合物はすべて分解しやすく,還元剤の作用または単に加熱しただけで金を遊離する。 執筆者:水町 邦彦
製法 日本における金の大部分は銅製錬の際の副産物として回収され,少量の金がシアン化法によって生産されている。金の鉱石としては金を10ppm(鉱石1t中に10g)以上含むものが用いられ,このように少量の金の含有量を正確に分析する方法として灰吹法が古くから使われている。金および銀を含む鉱石を粉砕して,その一定量を試金鉛とともにるつぼで溶融し,骨灰などでつくった皿(キューペル)に入れて空気を吹きつけながら約1000℃に加熱する。鉛と不純物は酸化されてキューペルに吸収され,金銀合金が残るので,硝酸で銀を溶解してのち金を秤量する方法である。これは製錬過程に生じる副産物中の金,銀を回収するのにも用いられる。
銅の鉱石中に含まれる金,および銅の溶錬の際に使用されるケイ酸塩鉱中の金は,その製造工程中でほとんどすべて銅の中に濃縮される。そして銅製錬の最終工程である電解精製工程において,銀その他貴金属とともに銅から分離され,陽極泥(アノードスライム )として回収される。また粗鉛の精製時の副産物としても回収される。金の製錬法にはほかにシアン化法(青化法)がある。酸素が存在する条件で金はシアン化ナトリウムNaCNの希薄水溶液(NaCNで0.05~0.25%)中に錯イオンの[Au(CN)2 ]⁻として溶解する。溶解した金を回収するには,この溶液に亜鉛末を加えて,置換する方法がとられる。鉱石中に共存する銀,銅等もシアン溶液に溶けて,金とともに亜鉛によって沈殿するので,この沈殿物は多くの不純物を含んでいる。おもな不純物は銀である。この沈殿物(殿物ともいう)を,適当な溶剤とともにるつぼに入れて溶かして金・銀の合金とし,さらに電解精製によって金,銀を分離する。不純物を含む金銀合金を陽極として,硝酸HNO3 を含んだ硝酸銀水溶液で電気分解すると,銀は陰極に析出し,金は不溶解のままで,陽極上に泥状(スライム)となって残る。これをさらに,硝酸で洗浄して,金,パラジウムなどと溶解後,再び高温で溶融して,金を95~98%含む陽極に鋳造し,塩酸,塩化金を含む溶液中で電気分解する。金は溶解しがたいので,直流に交流を加えた交流重畳電流によって電気分解することが特徴である。このようにしてできた金は99.99%以上の純度のものである。
用途 金地金としての需要が最も多いが,銀,銅などと合金にして,装飾用,歯科用,電子工業用(IC回路用接点,リード線など),その他工業用にも多く用いられている。ほかに私的退蔵用に回る分もある。 →貴金属 執筆者:後藤 佐吉
利用の歴史 人間には,古来,あたかも植物の〈向日性〉にも似た〈向金性〉(アプトン・シンクレアー)が強くみられる。それは〈金〉という物質が固有に有する不可思議な魔力,すなわち,第1にその〈希少性〉,第2にその〈美しい光沢〉,第3にその〈不活性〉と〈可展性〉といった金属としての優れた特質を,金自体がもっているからにほかならない。金と人間との付合いは前4000年ころ,オリエントに青銅文明が興った時代がその初源であるとされる。その歴史はおよそ6000年にも及んでいることになるが,しかしこの長い期間を通じて人間が地中から掘り出した金の総量は約9万tにすぎない。しかも興味深いことに,19世紀中葉までの全世界での採掘量は,歴史的なトータルとしてわずかに5000t前後でしかなかったのである。したがって,これまで人類が手にした金の94%という圧倒的な量はここ1世紀半に掘り出されたものである,という驚くべき史実のもとにあるということになる。人類が現在保有する9万tの金について,いま仮に1g当り3000円とすると,その全量の円換算値は270兆円となる。これは1981年の日本における金融資産が1000兆円を超えていることを思えば,全世界の金がこの限りにおいてもたかだかその3割の値しか存在しないことを意味する。まして全人類が保有する全財産との比較からすれば,金の極少性は明白である。しかも現在確認されている採掘可能な金の埋蔵量は,地球の中にあと4万tぐらいしか残っていないとされる。それゆえ,地球上で人類が利用できる金の総量は,将来にわたるものを合わせても13万tにすぎないのである。
金の美しい輝きは,古今東西を問わず,あらゆる人間の心を魅了しつづけてやむことがない。しかもその輝きは何百年,何千年たっても失われない。その理由は金が不活性の金属,すなわち,時間や他の物質による化学変化,酸化を起こさない不変の物質だからである。たとえば,かつてイギリスの首相ディズレーリが〈恋愛で心の平静を失うよりも金で平静を失う人のほうが多い〉と語ったことがあった。これは,まさに金が,不活性の黄金の輝きを永遠不滅に放つ希少の物質であるがゆえに,魔力ともいうべき不思議な力をもって人間を惑わしてきた事実を証言する言葉の一つである。金と人類6000年の歴史は,男も女も権力や富の象徴として金のためにだまし合い,金のために殺戮(さつりく)を繰り返してきた物語に彩られているとともに,そこには古代エジプトのツタンカーメン王の黄金の柩や古代中国の錬金術師たちが求めた不死の霊薬(錬金薬,西方ではエリクシルelixirと呼ばれた)に典型的に象徴され,かつまた実体化されたような,金を知ることによって人間が求めた〈永遠の生〉への凄絶な執念の物語にも刻印されている。おそらく歴史の初期段階から,人間が生を受けてこの世で知ったことの決定的なことの一つは,万物は流転するということ,すなわち,この現世にあっては永久に変わらないものはなに一つ存在しないということであったであろう。事物や事象は刻一刻と変化してゆくし,一人ひとりの人間の生も確実にいつかは消える運命を逃れることができない。仏教的にいって,人間は歴史のかなり早い時代から〈無常感〉にさいなまれてきたに違いない。だが金によって人間は,絶対存在しえないと思っていた〈永遠不滅のもの〉の実在を知らされたのであった。そして人間は〈それを,象徴的にも実体的にも,わが生としたい〉と切望するようになっていったのである。黄金の柩もエリクシルも,その飽くなき執念のなせる業であったとみなさなければならない。だからして人間は,金を神の聖位置に奉る意識さえもつに至るのであった。〈金はゼウス神の子/シミもサビも金を滅ぼすことはない〉(古代ギリシアの抒情詩人,ピンダロス)--この詩歌の一節は〈永遠不滅の物質〉としての金の特徴を見事にとらえているだけでなく,古代人が金を神とあがめ奉った気持ちを率直に表明している言葉の一つである。
金のこのような特性は,歴史通貫的に人間の運命を,あるいは華麗にし,あるいは深刻にし,あるいはまたむごい姿態でもって翻弄させたりした。黄金郷(エル・ドラド )を求める大航海や,アメリカ西部のゴールドラッシュ など,その例は枚挙にいとまがない。一方人間はより多くの金を求めるかたわら,他方では金の可展性にも着目することによって,より少ない金によるより多くの人間的利用の方途にも腐心している。金の可展性は,1gの金が5Åの極細線にして2800mまで延び,1cm3 の金から現在日本において製造され使用されている標準箔(11cm2 角で0.3~0.6μmの薄さ)にして約1000枚がとれるほどである。その結果金箔が発明され,金の装飾的世界の格段の広がりが,人々の日常生活における実用品から美術工芸品,さらには宗教用具等の諸領域にも及んで,広範囲に現実化することになるのは,古代末期から中世の諸時代を通してであった。優れた箔ができるようになってくると,それを使った金糸や銀糸を織り込んだ華麗な色彩の織物が製作されるようになったり,印金(いんきん),金唐皮(きんからかわ),截金(きりがね),摺箔(すりはく),沈金,蒔絵 (まきえ)といった芸術的価値のきわめて高い手法の工芸美術世界の開陳が見事にみられるようになったり,あるいは寺院の伽藍や神殿の内外装,そして仏像・仏具などの表具に貼箔・押箔がなされることで,宗教芸術史上のみならず建築美術史上においても,画期的な新時代の創出と展開をもたらすことに直結していくのであった。洋の東西を問わず,絢爛にして豪華かつ精緻な中世芸術の真髄は,〈中世的製箔法〉の創案,完成,その社会的定着に至る職人技術との密接な関連のうちにあったことを見逃してはならないのである。すなわち紙あるいは羊皮紙の間に金を挟み,たたいて延ばしていくという製箔技術が,ヨーロッパでも日本でもほぼ同じ12~13世紀に登場するのである。
以上のような金利用をめぐる人間模様は古代から中世にかけて出そろうが,このほかにも金はそれ自体としてつねに財産としての機能と意味をもちつづけてきていること,あるいは金貨すなわち貨幣として鋳造され,流通をみた歴史もあるということ,また,西欧錬金術の長い間の試行錯誤が近代科学を発達させる直接の導因となったという事実なども忘れてはならない。そして今日,今度は逆に,発達した近代科学がまさに科学的に金のさまざまな知られざる特性を発見することによって,広く工業,装飾用ばかりでなく,宇宙産業にまで及ぶあらゆる分野で,金の新たな利用と活用がみられるに至っている。いくつかの事例を挙げておこう。私たちの周りにみられる近代的な商品たとえばオーディオのアンプやプレーヤー,テレビ,ラジオ,電卓,電話機,自動車,それにパソコンやワープロといったコンピューター製品などにも金(箔)が使用されているばかりではない。金(箔)は航空機やミサイル,宇宙開発にとって不可欠の素材でもある。このように,今日ますます広くいろいろな用途に金(箔)が使われるようになってきている理由は何であろうか。それは要するに,金が,その電気抵抗値が他の物質よりもはるかに低く,わずかな電流でも通してしまう性質を備えていること,また不酸化物質であるため腐食したりさびることがなく導体としてきわめて安定した物質材である,ということにある。それゆえ,ICなどの半導体やプリント回路基盤には,なくてはならない素材となってきたのである。また金には高熱を反射する性質があり,航空機産業や宇宙開発の分野ではジェット機やロケットに従来使用してきた石綿をつめた断熱材に代えて,軽くて薄い金フィルム(金箔)を採用することで機体重量の軽減に資している。 →錬金術 執筆者:安江 孝司
貨幣としての金 金は工業,装飾用に重要な貴金属であるが,金にはもう一つの重要な役割,すなわち貨幣としての役割がある。金が貨幣として用いられた理由として通常挙げられるのは,つぎの3点である。(1)加工が容易であるにもかかわらず,変質も化合もしない。(2)他の物質から合成することができない。(3)大量には存在しないが,入手が不可能に近いほど希少ではなく,貨幣として用いられるだけの希少性と純粋性と美しさをもっている。金と交換するのを拒むものがいないから,金は一般的交換手段つまり貨幣となりえたし,合成が不可能であり,変質もしないから,貯蓄手段となりえた。
古代と呼ばれた時期においても貨幣の役割をもつものが存在していた。しかし,それは金属貨幣ではなく,小さい部族社会の中でしか通用しなかった。やがてより広い世界をつつむ市場が成長してくるにつれて,貴金属が共通の貨幣として使用されるようになり,やがて金が広い〈世界〉市場での貨幣の地位につくに至った。ローマ帝国では金貨が使用されていたが,帝国滅亡後はおもにビザンティンおよびアラビア諸国に流通していた。ヨーロッパでは銀貨が主として流通していたが,13世紀にはいってからヨーロッパでも金貨が鋳造されるようになった。経済力の強い国の金貨が最もよく受容されるようになったのは当然であり,13世紀半ばフロリン金貨(フローレンス)が抜群の地位を占めていた。16世紀になるとオランダが有力となり,リール金貨が〈世界貨幣〉となった。銀貨は金貨と併用されていたが,やがて18世紀末にイギリスは銀貨の自由鋳造を禁止し,事実上の金貨中心の体制に移ることになった。19世紀初めイギリスはソブリン金貨 を発行し,それを本位貨幣とした。ドイツをはじめ他の諸国もイギリスにならい,本位貨幣として金貨を鋳造し,発行した。金本位制度 を各国が採用し,国際金本位制度が成立したことにより,金はついに法制的に世界貨幣(国際通貨)となった。このようにして金は世界の通貨制度のうえで中心的な地位を確立するにいたったわけである。第1次大戦とともに,金をめぐる情勢は大きく揺らいだ。結局において,戦費調達のためヨーロッパの交戦国は金を手放した。その結果,イギリスをはじめ各国とも金の不足のため,金貨の鋳造・流通を停止してしまった。ヨーロッパ諸国がもっていた金はアメリカへ流出し,そこへ集積していったからである。すなわち大戦前の1914年に20億ドルに満たなかったアメリカの金保有高が,戦後30億ドルを突破し,35年には100億ドル,40年には200億ドル台に乗せた。こうした情勢下,アメリカ以外の各国は金兌換を停止せざるをえなくなった。金のアメリカへの偏在は世界におけるドル の地位を強化することになった。1930年代の世界的不況のなかで,アメリカはドルと金との間の法定平価を切り下げ,1オンス=35ドルとしたが,この金のドル公定価格はその後約40年間続くことになる。
第2次大戦が終わったとき,アメリカ以外の各国は自国通貨と金との法定平価による兌換(だかん)を復活させることはできなかった。金は国際取引の決済に最終的に用いることのできる世界貨幣としての機能と信認を維持していたから,金を重要な対外支払のための準備資産として保持し,その増大を心がけ,多くの人が金を資産として蓄えようとした。これを金選好という。金との兌換が保証されていたドルは世界の基軸通貨となったが,アメリカから流出したドルが巨額になるにつれて,ドルの金兌換に不安が生じてきた。アメリカは金のドル公定価格を引き上げるとの予想が広まり,世界の金選好は高まった。
すでに1950年代末から自由金市場で投機によって金価格が急騰したため,61年に欧米の中央銀行は保有金を拠出して〈金プール〉をつくり,ロンドン金市場へ売り介入を行った。しかし市場の金価格上昇を抑えることはできず,ついに68年介入を停止した。その結果,金の価格は市場価格と公定価格の2本立てとなり,金の二重価格制が成立した。その後,アメリカは71年にドルの金兌換を停止し,同年末に公定価格を38ドルへ,73年には42ドルへと引き上げたが,金兌換停止後の公定価格に実質的意味はなく,金の価格は市場価格一本になった。金価格は急激な上昇を開始し,たちまち1オンス100ドルを超えてしまった。76年キングストン会議において,ドルと金の結びつきの廃止(金の公定価格の廃止)を意味する〈金の廃貨demonetization of gold〉が打ち出された。しかし,世界の金選好はかえって強まり,一時は(1980)1オンス800ドルを超えた。現在,クルーガーランド金貨(〈ナポレオン金貨 〉の項参照)や金地金は金融資産として国際的に保有され,金の実質的地位はなお確固として続いている。 執筆者:渡部 福太郎
日本の金生産 《続日本紀》に749年(天平勝宝1)陸奥国より初めて貢金の記事がある。しかし砂金洗取による生産方法は原初的技術で,日本でも記録以前の原始時代から行われてきたと思われ,また中世末期まで支配的な産金法であった。古代には陸奥白河郡,下野,駿河などに少量を産し,平安末期に佐渡の西三川でも砂金を採ったが,陸奥の砂金地帯(現在の宮城県北部から岩手県南部)が16世紀初期までの主産地であった。奈良時代以来この地方の産金は砂金または砂金を溶錬した錬金で陸奥国司から朝廷へ貢納された。平安中期から宮廷をはじめ造器用の増加,とくに日宋貿易の発展により代価物として多量に輸出されるようになり,金の需要は増大した。12世紀平泉に拠(よ)った奥州藤原氏が豪勢を誇ったころは採掘も盛んになり,またこのころ日本船の大陸渡航が興って金輸出も多くなった。室町時代にも金は明や朝鮮へ引きつづき輸出された。
金銀山は16世紀中ごろから急に開発され,山金の採掘製錬も進み,17世紀初期にかけ金銀の大増産をみた。しかし17世紀中ごろより金銀山は衰退する。甲斐,駿河など中部の金山が比較的早く開け,ほぼ同時期に北陸の金山,次いで奥羽の金山が起こり,九州の金山は一般にやや開発がおくれた。近世最大の産金をみた山ヶ野金山(現鹿児島県霧島市,旧横川町)は17世紀中ごろ盛んであった。金銀山の開発は戦国大名の熱心な政策下に進められ,金銀は軍用・恩賞に重用された。金銀はまた貨幣としてしだいに使用されるようになっていった。豊臣秀吉は諸国の金銀山は公儀のもので諸領主へ預けおくものとし,運上を徴収し金銀を集積したが,徳川家康も秀吉の鉱山政策を承継推進して重要な金銀山を直轄領とし,幕府財政の強力な基礎とした。
このころまで金は一般に秤量貨幣として流通した。金の量目は鎌倉時代から1両=4匁5分が行われ,金の使用が広まるにつれこの量目法を京目と呼び,地方に4匁,4匁2分などを1両とする田舎目が行われた。16世紀後期に畿内中心に1両=4匁4分に改まったが,両,分,朱の四進法と貫匁法を併用する便宜からであろう。極印を打ち品位を保証した判金は,すでに15世紀に貿易金として現れ,やがて戦国大名中に鋳造するものもあったが,京都,堺,奈良などに判金,極印銀を鋳造し,両替,秤量,吹替などを営む業者が現れた。16世紀末には地方にも同種の業者が出て,彼らを金屋(かねや),銀屋,天秤屋などと呼び,領主から特権を受けたものが銀座・天秤座である。判金は品位を保証した秤量貨幣で,このほか竿金,延金,玉金など形状によって呼ばれた製錬したままの金も取引された。
16世紀以後の金銀増産は外国貿易にも重要な関係がある。13~16世紀前期の日本の金銀比価は1対5~6,中国では12,13世紀に1対13ほど,14世紀末~16世紀に1対5~6で,日本では増産のため金銀ともに値段が下落し,とくに産銀が多いため金銀比価は1対10ほどとなり,17世紀前期に1対13ほどとなる。金は16世紀前期までとくに銅銭との相場は中国に対して有利で,日本から輸出された。16世紀後期から銀は輸出の大宗となり,金は輸入に転じ,1630年代まで中国はじめ東南アジア各地から輸入された。17世紀初めまでフィリピン,スマトラ,広南(ベトナム)などの金銀比価は中国以上に日本への金輸出を有利とした。しかし1640年(寛永17)ころ東洋諸国の金銀比価は平均化し,銀との交換による金の有利な価値関係は失われた。徳川氏は1601年(慶長6)慶長金銀 を鋳造発行し,ここに金銀貨幣制が確立した。諸領域に流通した金銀(〈領国貨幣 〉の項参照)は17世紀末までに幕府の金銀貨に統一される。幕府の金貨は計数貨幣であったが,地金の良否により相場は変動した。95年(元禄8)最初の貨幣改鋳があり,金銀の出目による収益を図ったといわれるが,金銀産出の激減がその背景にあった。
明治政府は佐渡金山 などを官行とし,採鉱製錬の技術面でも西洋のそれを導入したが,産金量は19世紀中は近世初期のそれに及ばなかった。明治末年から大正,昭和にかけ採鉱,砕鉱の法も進歩し製錬法も実情に合うように研究された。1940年の産金高は朝鮮・台湾の金山の分を除き本土の分が27tに達した。第2次大戦後は62年に13t程度であまり振るわず休山したものも多いが,80年代に入って活発な採鉱が行われていることは後述のとおりである。 →貨幣 執筆者:小葉田 淳
現代の生産と取引 自由世界の金生産高は1965-71年の1200t台をピークにしだいに減ってきたが,82年に1000t台を回復し減少傾向が止まった。これは世界第1の産金国(7割前後を占める)南アフリカ共和国が1970年の1000.4tから81年の657.6tまでの減産に終止符を打った結果である。南アの鉱山は深部探鉱の技術進歩で20世紀中は現行水準を維持できるとしており,一方,ブラジル,ガーナ,パプア・ニューギニア,中国など金鉱の豊かな未開発産金国も指摘されるが,近い将来年間100t以上の生産国が出現する可能性は小さく,南アの圧倒的な地位が続くであろう。ソ連(ロシア)は産金奨励によって徐々に生産量を伸ばし,年間産金量は300t前後(南アに次ぐ)と推定される。日本は年間ほぼ平均的に40tの金を生産しているが,この大部分は輸入銅鉱石中に含まれた金分を精錬過程で抽出したもので,日本の鉱山からの産出は1982年で3.8t,その半分は国内銅,鉛,亜鉛鉱山の副産物である。かつて黄金の国といわれた日本も1940年の27t(日本本土のみ)を最高に減少の一途をたどってきた。ただ最近では九州南部で住友金属鉱山が世界的にもまれにみる高品位金鉱床を発見(菱刈鉱山,1985年から本格的に採掘)するなど活発な探鉱が続いている。
金の需要は電子工業中心の工業用,装飾品用,私的退蔵用に分かれるが,工業用を除き価格弾力性がきわめて高い。たとえば1980年初頭の1トロイオンス850ドルまでの金暴騰時には装飾品,退蔵金の売戻しがかさみ,この部門の需要はマイナスを記録したほどである。供給面では旧ソ連を中心とする共産圏の売却が外貨事情によってかなり変化する傾向にあった(自由世界の新産金供給は比較的安定している)。各国中央銀行,IMF(国際通貨基金)など公的機関に約3.5万t,フランス,西ドイツなど金選好の高い国中心に個人の退蔵が約2万tといわれ,この公的,私的な両ストックが政治・経済情勢に応じてときに売却に回るため,新産金動向だけでは供給は推し測れない。たとえば83年10月の1トロイオンス400ドル割れは,ポルトガル,ブラジルなどが外貨繰りのため保有金を売却したことが弱(よわ)材料となった。これらの需給はロンドン,チューリヒ,香港,ニューヨークの四大市場を主軸に,自由競争原理に基づいて調整されている(〈金市場 〉の項参照)。
日本では1931年の日本銀行金買入法によって国産金は政府による集中管理となり,これが戦後には50年の貴金属管理法に引き継がれた。52年には白金,銀を除外し金管理法 になった(1953年全面改正)。この金管理法では国産金の一部を自由に販売することが認められ,その割合も当初の67%から54年73%,55年95%と拡大,68年以降は全量自由販売となった。67年からは貴金属特別会計法によって,政府が不足分を輸入し民間に払い下げる仕組みができた。1トロイオンス35ドル(1g405円)で買い付け,国内統制価格660円で払い下げ,この差額は貴金属特別会計に積み立てられた。73年4月から為替の自由化と歩調を合わせて金の民間輸入が自由化され,自由化直後の4月の輸入量は37tに達し第1次の金ブームを招来した。78年4月には輸出も自由化され,日本は国際金市場の一環に完全に組み込まれ,その値決めも国際市場のドル建て価格を為替で調整する方式が浸透,一般の金保有が大きく進んだ。82年には3月に東京金取引所が発足,4月からは銀行,証券会社による金の窓口販売も開始され,日本は私的退蔵需要の拡大余地が最も豊かな市場と目されるに至った。 執筆者:米良 周